西暦換算に関する注意
1582年以前に発生した日本の地震の西暦換算については、ユリウス暦であるか、グレゴリオ暦であるかを明記してください。Wikipediaの表記ガイドでは原則としてユリウス暦で表記することになっていますが、『理科年表』など多くの文献ではグレゴリオ暦表記となっており、混乱を避けるために注意が必要です。
詳細は日本の歴史地震の西暦換算を参照してください。
貞観地震
貞観地震の推定震源域
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貞観地震の推定震源地
本震
発生日869年7月9日
(貞観11年5月26日)
震央三陸沖(陸奥国東方沖)
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯38度30分 東経144度00分 / 北緯38.5度 東経144.0度 / 38.5; 144.0
貞観地震(じょうがんじしん)は、平安時代前期の貞観11年5月26日(ユリウス暦869年7月9日[3]、グレゴリオ暦7月13日)に、日本の陸奥国東方沖(日本海溝付近)の海底を震源域として発生したと推定されている、大規模な津波を伴った巨大地震である。震源域は北緯37.5°?39.5°・東経143°?145°、地震の規模はマグニチュード(M)8.3あるいはそれ以上と推定されている。この地域に周期的に発生する三陸沖地震のひとつとして理解されてきたため、貞観三陸地震と呼称されることがある。 延喜元年(901年)に成立した史書『日本三代実録』(日本紀略、類聚国史一七一)には、この地震に関する記述がいくつか記されている。 貞観11年5月26日(ユリウス暦869年7月9日)の大地震発生とその後の被害状況については、次のように伝わる。 五月・・・廿六日癸未 陸奧國地大震動 流光如晝隱映 頃之 人民叫呼 伏不能起 或屋仆壓死 或地裂埋殪 馬牛駭奔 或相昇踏 城(郭)倉庫 門櫓墻壁 頽落顛覆 不知其數 海口哮吼 聲似雷霆 驚濤涌潮 泝漲長 忽至城下 去海數十百里 浩々不辨其涯諸 原野道路 惣爲滄溟 乘船不遑 登山難及 溺死者千許 資産苗稼 殆無孑遺焉現代語訳(意訳) 5月26日癸未の日、陸奥国で大地震が起きた。(空を)流れる光が(夜を)昼のように照らし、人々は叫び声を挙げて身を伏せ、立つことができなかった。ある者は家屋の下敷きとなって圧死し、ある者は地割れに呑まれた。驚いた牛や馬は奔走したり互いに踏みつけ合い、城や倉庫・門櫓・牆壁
歴史書における記述
上記の史料にある「陸奥國」の「城」は多賀城であったと推定される。地震による圧死者の数は記されておらず、津波による溺死者が人的被害の中心をなすことが史料からは読み取られる。「流光如晝隱映」の部分は、地震にともなう宏観異常現象の一種である発光現象について述べた最初の記録であるとされる。斎野裕彦[4]は「驚濤涌潮」を慶長写本に基づき、「驚濤涌湖」とする校訂案を示したが、鈴木琢郎[5]は諸写本の系統と字形の模写ないしは影写の集成研究から、従来どおりの「驚濤涌潮」を矛盾なく解釈できるとして、斎野説を斥けた。「去海數十百里」は原本では「去海數千百里」であるが、当時の1里= 6 丁(約650メートル)であるとしてもこれは喫驚せざるを得ずとし、「去海」は海岸から津波で浸水した城郭までの距離を表し、多賀城から湊浜までは50丁位(約5.5キロ)にも満たないため、「數十百里」(30 - 65キロ程度)が妥当であるとしている[6]。また、「數十百里」であるとしても正鵠を失ったものであるとし、これは「沿海數十百里」と読むべきとする説もある[7]。「原野道路 惣爲滄溟」の「道路」は当時多賀城に通じる官道東山道や浜通りの旧官道ほかを指すものとみられる[8][9]。