貞明皇后
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貞明皇后
1912年(大正元年)撮影
第123代天皇后
在位期間
1912年7月30日 - 1926年12月25日
明治45年/大正元年7月30日 - 大正15年/昭和元年12月25日
皇后1912年(大正元年)7月30日
皇太后1926年(昭和元年)12月25日

誕生1884年6月25日
日本東京府神田区神田錦町
(現:東京都千代田区神田錦町)
九条殿
崩御 (1951-05-17) 1951年5月17日(66歳没)
日本・東京都港区元赤坂 大宮御所
大喪儀1951年(昭和26年)6月22日
陵所 日本・東京都南多摩郡横山村
(現:東京都八王子市長房町
多摩東陵
諱節子(さだこ)
旧名九条節子
追号貞明皇后
1951年(昭和26年)6月8日
追号勅定

氏族九条家藤原氏
父親九条道孝
母親野間幾子
配偶者大正天皇
結婚1900年(明治33年)5月10日
子女迪宮裕仁親王(昭和天皇
淳宮雍仁親王(秩父宮雍仁親王
光宮宣仁親王(高松宮宣仁親王
澄宮崇仁親王(三笠宮崇仁親王
身位皇太子妃皇后皇太后
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貞明皇后(ていめいこうごう、1884年明治17年〉6月25日 - 1951年昭和26年〉5月17日)は、日本の第123代天皇大正天皇皇后(在位:1912年〈明治45年/大正元年〉7月30日 - 1926年〈大正15年/昭和元年〉12月25日)。は節子(さだこ)。お印。旧名は、九条 節子(くじょう さだこ)。

昭和天皇の母。元華族公爵九条道孝令嬢。ハンセン病の予防など救らい事業や福祉事業、蚕糸業(糸)奨励などに尽力した。一夫一妻制での最初の皇后。藤原氏から立后した最後の例である。
生涯
生い立ち

1884年明治17年)6月25日公爵九条道孝の四女として、生母の野間幾子の実家である東京府神田錦町(現:東京都千代田区神田錦町)に誕生。道孝は明治4年(1871年)に正室和子を亡くしており、幾子は道孝の側室だった。

同年7月、東京府東多摩郡高円寺村(現:杉並区)近郊の豪農である大河原金蔵、てい夫妻に里子に出され、『九条の黒姫様』(くじょうのくろひめさま)と[1]呼ばれるほど逞しく育った。農家の風習の中で育ち、栗拾いやトンボ捕りをするなど裸足で遊んだ[2]

大河原家は高円寺地域の氏神である氷川神社の氏子であったが、大河原家の敷地内には稲荷神社の祠もあった[3]。また、養母のていは仏教への信仰心も篤く、早朝から観音経(法華経の一部)を読経しており、節子もていと共に仏壇に手を合わせていた[3]

1888年(明治21年)には、赤坂福吉町の九条家に戻る。
皇太子妃候補として

1890年(明治23年)9月1日、華族女学校(後の女子学習院)初等小学科に入学し、1893年(明治26年)には高等小学科に進学する。さらに1896年(明治28年)には初等中学科に進学する。華族女学校では下田歌子石井筆子津田梅子らに師事した。中でも、石井筆子との師弟関係の絆は強く、公私の交際は生涯に亘って続いた。

当初、皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)の妃として伏見宮貞愛親王の長女である禎子女王が挙げられていた。1893年(明治26年)5月に皇太子妃に内定し、1896年(明治29年)には明治天皇皇后美子とも対面していた[4]。禎子女王は外見が色白で美しかったが、西欧列強と並び立つためにキリスト教文化圏の一夫一妻制を導入する必要性がある中、健康面を不安視され[注釈 1]1899年(明治32年)3月に、婚約は解消された。

九条節子は、正室の子でないことや、明治天皇が皇族からの東宮妃を強く望んでいたこと、更には政府上層部でも節子に否定的な意見が多かった。最終的には消去法にて、色黒すなわち容姿端麗ではないことよりも、先述の通り『黒姫』と呼ばれるほどに健康であることが重視され、1899年(明治32年)8月21日に婚約が内定した。「容姿端麗ではない」とされた節子以外の女性に皇太子が興味を持たぬよう、皇太子は節子を含めた女性との接触を制限された[5]。また、大河原家にあった幼少期の写真は没収された[6]
皇太子妃時代


結婚の儀に臨む皇太子嘉仁親王(当時)と節子
1900年撮影)

1900年(明治33年)2月11日、満15歳(数え年17歳)で、5歳年上の皇太子嘉仁親王と婚約。同年5月10日、宮中の賢所に於いて、賢所大前の儀を執り行った。これは、前4月に制定された皇室婚嫁令に基づく、史上初の神前挙式であった[7]。節子は、和装と洋装を計5回着替え、明治天皇皇后美子への拝礼を含む多くの行事をこなした。

婚儀は従来の公家様式に代わる、新たな様式であり[8]、婚礼の儀式や行事は、当時の最新マスメディアである新聞によって詳報され、一般市民の関心を集めた。そこで、翌1901年(明治34年)礼法講習会[注釈 2]日比谷大神宮で二人の婚礼を模して神前結婚式を創始し、以後、ホテル結婚式・披露宴とともに日本社会に広く普及していった[8]

結婚式の日の様子として、ドイツ帝国からの”お雇い外国人”であるエルヴィン・フォン・ベルツは「東宮はお元気な様子、妃は大変お美しい」と評した。一方、節子の恩師である下田歌子は、「これという取り柄が無いが、未来の国母としてわずかな欠点も無い方」という主旨の評価を新聞に寄せた[9]

同年5月23日から6月7日にかけて皇太子同妃は、伊勢の神宮神武天皇陵への奉告を含め、東海?近畿地方を旅行した[注釈 3]

還御した嘉仁親王と皇太子妃節子は、それぞれ別に国学漢学フランス語等の教育を受けた[10]。成婚当時は教育係の老女官・万里小路幸子らに宮中における礼儀作法を厳しく躾けられ困惑したという。後年には万里小路の指導が自分の素養に大きく役立ったと感謝していた[11]


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