象潟地震
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象潟地震
本震
発生日1804年7月10日(文化元年6月4日)
発生時刻午後10時ごろ
震央出羽国(推定)
規模   M7.0 - M7.5程度
最大震度   震度7:象潟など(推定)
津波最大5m程度
被害
死傷者数死者366人
被害地域日本(出羽国など)

プロジェクト:地球科学
プロジェクト:災害
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象潟地震(きさかたじしん)は、江戸時代後期、文化元年6月4日夜四ツ時(1804年7月10日22時ごろ)に出羽国を中心として発生した津波を伴った大地震である。松尾芭蕉らにより「東の松島 西の象潟」と評された景勝地の象潟が隆起して陸地化したことで知られる。

地震の約3年前の享和元年7月2日(1801年8月10日)には鳥海山が東側斜面から噴火を開始し、1804年頃まで活動を続け、享和岳(新山)と呼ばれる溶岩円頂丘を形成した。また、『田中又右衛門聞書』には地震発生とほぼ同時刻の状況として「四日夜四ツ時、鳥海山鳴事雷の如し、等しく地震」と記録されている[1] 地震で隆起した象潟
目次

1 地震の記録

1.1 地震像


2 被害

3 津波

4 地殻変動

5 『雷電日記』が報告する象潟地震の惨状

6 脚注

7 関連項目

8 外部リンク

地震の記録

この年の5月下旬頃からこの付近で鳴動があり、象潟内陸部の長岡、小瀧では地震前に井戸の水位低下や水の濁りがあったという[2]。『金浦年代記』には夜四ツ時、大地が2、3持上げられたように感じられた直後、激しい揺れに襲われたとある。地震は多くの人々が就寝中の夜の発生であったため、潰家の下敷きとなり犠牲者を出す結果となった[3]

近江八幡でも有感であったとする史料も存在し、酒田鶴岡では6月中余震が続いた記録がある。6月6日朝五ツ時(7月12日8時頃)の余震は強く、酒田で潰家15軒、津波も生じた[2]
地震像

近代的な観測記録が存在しない歴史地震であるため、この項の数値は不確定性を含む。

河角廣はMK = 4.5としてマグニチュード M = 7.1を与えていた[4]。震度分布から M = 7.3[5] あるいは震源断層モデルから Mw = 7.5[6] との推定もあり、宇佐美(2003)は M = 7.0 ± 0.1[7] としている。

発震機構は地殻変動や津波による推定から、象潟の十数km沖で海岸線にほぼ平行した長さ約42kmの高角逆断層の変位が生じたものと推定されている[6]
被害 象潟地震の震度分布[7]

由利郡飽海郡田川郡で特に被害が著しく、本荘城では櫓、門、塀、石垣が大破し、本荘藩庄内藩領内周辺では潰家5500軒余(内本荘領1770軒、庄内領2826軒)、死者366人(内本荘領161人、庄内領150人)の被害となり、幕府は本荘藩主六郷政速2千を貸与した(『文化日記』)。象潟(現・にかほ市象潟地区)、遊佐(現・遊佐町)、酒田などでは地割れ、液状化現象による噴砂が見られ、象潟、遊佐付近では家屋の倒壊率が70%に達した。

液状化による泥水の噴水が各地で見られ、小出村(現・にかほ市)では地割れから硫黄臭のする泥水が吹き上げた[3]。酒田では四五尺程までに地が裂け、泥を吹上げ五尺余(1.5m以上)の深さの泥海となり(『宝暦現来集』)、鶴岡では井戸で水鉄砲の様に水が一丈余(3m以上)も吹出した(『東野其抄録』)。

羽黒山では灯籠が倒れ、『宝暦現来集』によれば蚶満寺は大寺であるが1余も震込んで砂に埋ったという。

地域推定震度[7]
羽後大館(4-5), 角館(S), 秋田(5), 湯沢(5), 稲川(E), 由利(5-6), 矢島(5-6), 本荘(6), 西目(6), 仁賀保(6), 金浦(6-7), 象潟(6-7), 遊佐(6-7), 酒田(6), 荒瀬(6), 平田(6), 余目(S), 松山(E)
羽前鶴岡(4-5), 羽黒(4-5), 新庄(4)
東山道弘前(S), 岩泉(e), 登米(E), 古川(E)


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