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出典検索?: "象徴主義"
象徴主義(しょうちょうしゅぎ、フランス語: symbolisme; サンボリスムとも)とは、自然主義や高踏派運動への反動として1870年頃のフランスとベルギーに起きた文学運動および芸術運動である。象徴主義者を総称して「象徴派」(仏: symbolistes)と呼ぶ。ロシア象徴主義の開祖となった詩人ワレリー・ブリューソフなどにより、この運動はロシアにまで輸出された。イギリスにおけるラファエル前派も参照。
「象徴主義」(symbolisme)という語は、1886年に「象徴主義宣言」≪ Le Symbolisme ≫を発表した詩人ジャン・モレアスが、「象徴」(symbole)という語の語源[1]である「一緒に投げること」を利用し、抽象的な観念とそれを表現するべきイマージュの間に、これらの、「象徴主義」と呼ばれるに至る詩が打ち立てようと望む類比関係を、指し示そうとして提案した。
定義19世紀後半のフランス詩人たち。前列左にヴェルレーヌとランボー。アンリ・ファンタン=ラトゥール画(1872)
1886年にフィガロ紙で発表された「一文学宣言:象徴主義」(仏: Un Manifeste litteraire: Le Symbolisme)において、ジャン・モレアスはこの新しい様式をこう定義している。「《教訓、美辞麗句、虚偽の感覚、主観を混じえない叙述》の敵である象徴派の詩が探究するのは、「理念」に感性的な形態を纏わせることである。しかしその感性的な形態は、自身から発した目標先であることはなく、「理念」を表現することに向けて役立ちながら、臣下で在り続けるだろう。一方、「理念」は外見的な類似という豪奢な長衣を奪われたままでいるわけにはいかないのだ。というのも、象徴主義芸術の本質的な性質は、「理念」という概念それ自体には到達し得ないからである。したがって、この象徴主義芸術に於いて、自然風景、人間の営み、あらゆる物質的な現象が、そのままの姿で表されることはあり得ないだろう。象徴主義芸術に於いて、それら事象は、本源の側のものである「理念」とのおのれの秘教的な類似を表象することを、運命付けられた外観なのだ。」[2](城牙咲くらは訳 一部修正)
アルベール・オーリエは『メルキュール・ド・フランス』誌において1891年にこう定義している「芸術作品は第1に観念的であるべきである。そのただ1つの理想は観念の表現であるから。第2に象徴的であるべきである。その観念に形を与えて表現するのだから。第3に総合的であるべきである。諸々の形態や記号を総体的に理解される形で描くのであるから。第4に主観的であるべきである。事物は事物としてではなく主体によって感受される記号として考えられるのであるから。第5に装飾的であるべきである。」
象徴主義は自然主義への反動であった。「観念に感受可能な形を着せる」ことが重要であった[要出典]。自然主義者とは対照的に、象徴派は事物を忠実には描かず、理想世界を喚起し、魂の状態の表現を特別扱いする印象や感覚を探求した。
象徴主義はロマン主義の最も秘教的な側面とも関係があるが、何よりもシャルル・ボードレールに負う部分が大きい[要出典]。もう少し後になって知られるようになった(マラルメに「途轍もない通行者」と称された)アルチュール・ランボーは、1871年5月15日付のポール・ドメニー(フランス語版)宛の手紙(見者の手紙(フランス語版))において、「詩人は、あらゆる感覚の、長い間の、大がかりな、そして合理的な狂乱化を通して、見者になる」とし、「言葉は、魂から魂へと向かうものであって、匂いも、音も、色も、一切を要約すると同時に、思考を引っかけては引き寄せる思考からなるもの」であると[3]、詩の方向を定めた[4]。しかしながら象徴派がリーダーと見做すのはポール・ヴェルレーヌであり、その「詩法」(1874)は象徴主義の規範を定めている:
原文抄訳
Car nous voulons la Nuance encore,それというのも我々はニュアンスを望むから、
Pas la Couleur, rien que la nuance !色彩ではない、ただニュアンスだけを!
Oh ! la nuance seule fianceああ! ただニュアンスだけが
Le reve au reve et la flute au cor ! [5]夢と夢を、フルートと角笛を調和させる!
起源マルスラン・デブータンによる「ジョセファン・ペラダンの肖像」(1891年)
文学においては、象徴主義運動はシャルル・ボードレールの『悪の華』(1857)にその起源が見出される。象徴派の美学は1860-70年代にステファヌ・マラルメとポール・ヴェルレーヌによって発展を見た。1880年代には、一連の宣言文に支えられ、象徴主義美学は一団の作家たちを呼び寄せた。ボードレールによるエドガー・アラン・ポーの作品の仏訳は大きな影響力を持ち、象徴主義の数多くの転義法とイマージュの源泉となった。
文学における運動とは別に、美術における象徴主義も、ロマン主義のゴシック的な側面から出現した。しかしながらロマン主義美術が直情的かつ反逆的であったのに対し、象徴主義美術は静的かつ儀式的なものであった。象徴主義における不可知なもの神秘的なものに対する偏愛は、19世紀末のカトリック復古運動にもつながっていく。今までにないカトリック復古の動きは作家オスカー・ワイルドや画家オーブリー・ビアズリーのカトリック改宗に見られる。また同じくこの時期に改宗した作家ジョリス=カルル・ユイスマンスが、デカダンスや悪魔主義といった題材から大きく立場を変え、最晩年には19世紀に盛り上がりを見せたカトリック的奇跡への希求を『ルルドの群衆』で取り上げている。しかし俗化した従来の宗教制度に対する忌避は、カトリック回帰にとどまらず、儀式性と象徴性を重んじる新興の神秘主義団体への傾斜にも向かうことになる。『秘教哲学全集』を著したエリファス・レヴィからフランス象徴主義詩人への影響、マグレガー・メイザースらの「黄金の夜明け団」からアイルランド詩人イェイツへの影響などは見逃せないつながりである。また(カトリック)薔薇十字団[6]を結成しフランスやベルギーの象徴主義の芸術家の結束を促した神秘主義者ジョセファン・ペラダンの功績は特筆すべきものがある。
音楽『ペレアスとメリザンド』。エドモンド・レイトン画
象徴主義は音楽にも影響を及ぼした。象徴派の作家・芸術家や批評家の多くは、リヒャルト・ワーグナーの音楽に好意的であった[7]。
象徴主義の美学はクロード・ドビュッシーの仕事に重要な影響を及ぼした。ドビュッシーの歌詞やテーマの選択はほぼ全てが象徴派からであった。