豊響隆太
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豊響 隆太

入場する豊響
基礎情報
四股名豊響 隆太
本名門元 隆太
愛称カドリュウ、平成の猛牛、トラフグ
生年月日 (1984-11-16) 1984年11月16日(39歳)
出身山口県豊浦郡豊浦町
(現:下関市、出生地は大阪府大阪市
身長185cm
体重185kg
BMI54.05
所属部屋境川部屋
得意技突き、押し
成績
現在の番付引退
最高位東前頭2枚目
生涯戦歴569勝565敗66休(97場所)
幕内戦歴347勝403敗30休(52場所)
優勝十両優勝3回
序二段優勝1回
敢闘賞3回
データ
初土俵2005年1月場所
入幕2007年7月場所
引退2021年5月場所
(番付上は2021年7月場所)
引退後年寄・山科
趣味昼寝
備考
金星1個(白鵬1個)
2021年6月21日現在■テンプレート  ■プロジェクト 相撲
横綱審議委員会稽古総見での豊響関(2009年4月29日撮影)

豊響 隆太(とよひびき りゅうた、1984年11月16日 - )は、山口県豊浦郡豊浦町(現:下関市、出生地は大阪府大阪市)出身で境川部屋に所属した元大相撲力士。本名は門元 隆太(かどもと りゅうた)、愛称は平成の猛牛。身長185cm、体重185kg、血液型はB型。得意手は突き、押し。趣味は昼寝。最高位は東前頭2枚目(2008年11月場所)。現在は年寄・山科
来歴

幼少期に両親が離婚し、母は門元少年を含めた3人の子供を女手一つで育てた。小学校2年生の時に豊浦町に移り、地元のスポーツ少年団加入がきっかけで相撲を始めた。そのときの先輩・チームメイトに豊真将がいる。門元少年の中学進学のときに山本少年(豊真将)は関東の高校に進学したためふるさとを離れたが、門元少年はその後も豊浦町に残った。

高校時代は山口県立響高等学校[1]で活躍した。高校在学中に境川親方が家にやって来て勧誘を受けたが「親方にお世話になったら」と声をかけた母に対して「だったらお前が行けよ」[2]とぞんざいな口を聞く門元を見た境川は「親に向かってそんな口をたたく奴はこっちからごめんだ」と切り捨て、一旦境川部屋への入門は破談となった。卒業後、大相撲は厳しいからと就職する道を選び、造船所アルバイト、トラック運転手などの仕事をして相撲から離れていたが、第59回国民体育大会で個人16強の成績を収め相撲への意欲が再燃[3]、兄の助言もあって境川部屋に入門。その際に自ら境川へ入門を志願し、前述の母親に対するぞんざいな振る舞いを詫びたといい[4]、境川は「命を懸けて来い」と受け入れた[5]。母親への態度の件で自分を叱ってくれた境川に男気を感じて入門を決めたという話もある。2005年(平成17年)1月場所で初土俵を踏んだ。一時は同じ部屋の高校横綱・豪栄道(同期入門)らとともに、期待されている若手の一人であった。2007年の初場所に豊響に改名。「豊」は出身地の下関市豊浦町と母親の名前「豊美」の「豊」、「響」は出身校の響高校の「響」に由来する。

2006年(平成18年)11月場所では西幕下3枚目の地位で4勝3敗と勝ち越し2007年(平成19年)1月場所の新十両を決め、入門からわずか2年で関取に昇進した。この場所で10勝5敗、十両上位の栃煌山霜鳥との優勝決定戦を制し、新十両での十両優勝を果たした。5月場所では10勝5敗と新十両の場所以来2場所ぶり2度目の2桁勝利、7月場所では新入幕を果たし、11勝4敗の好成績で敢闘賞を受賞した。

2008年(平成20年)7月場所では13日目を終えて10勝3敗と幕内の優勝争いにも名前が挙がり、14日目、千秋楽の番付上位の力士との対戦では連敗したが10勝5敗で敢闘賞を受賞した。11月場所では自己最高位となる東前頭2枚目まで番付を上げたが、網膜剥離のため全休した。[6]

2009年(平成21年)1月場所は14日目までで5勝9敗。千秋楽に十両の土佐豊勇み足で敗れて5勝10敗と二桁黒星、翌3月場所は西十両3枚目まで番付を落とした。出直し場所となった翌3月場所は、12勝3敗で2度目の十両優勝を果たし、1場所で幕内に復帰。翌5月場所は序盤まで3勝2敗だったが、11日目に勝ち越しを決め、最終的に11勝4敗の好成績を挙げた。

西前頭16枚目でむかえた2010年(平成22年)1月場所は、12勝3敗という好成績を挙げ、敢闘賞を受賞した。

2010年に起きた大相撲野球賭博問題では野球賭博に関わったとされ、特別調査委員会から名古屋場所での謹慎休場を勧告され、相撲協会もそれを受け入れた[7]。そのため同年7月場所は全休、翌9月場所は十両へ陥落となった。9月場所はやや調子が落ち込んでおり、7勝8敗と負け越した。続く11月場所では四つに組む相撲が少なくないものの、最終盤まで優勝争いの先頭を走り、千秋楽本割で幕内の隠岐の海に敗れ、4人の優勝決定戦トーナメントでも決勝戦で魁聖に敗れ優勝を逃しはしたが、実力の差を見せた。

2011年(平成23年)1月場所で3度目の入幕、2012年(平成24年)5月場所では東前頭3枚目となり久々に上位総当りとなったが、3日目に琴欧洲を破って大関戦初勝利を挙げた。この後日馬富士も破って7日目に横綱白鵬戦を迎えた。土俵際の捨て身の小手投げで勝ったかに見えたが、立行司木村庄之助の軍配は白鵬に上がって物言いがついた。協議の結果、行司軍配差し違えで豊響の勝ちとなり、初金星を獲得した。ただし、それ以降は負けが込み、この場所は5勝10敗と負け越した。同年9月場所は西前頭4枚目の地位で迎え、この場所では琴奨菊把瑠都、琴欧洲の3大関が途中休場を喫したため勝ち越して新三役昇進を手にするまたとない機会であったが惜しくも7勝8敗の負け越しとなった。2013年5月場所は西前頭10枚目まで番付を落とし、ここでは初日の黒星から3日目までヌケヌケとなったかと思えば4日目から13日目までにかけて5連勝した後に5連敗を喫するという連相撲ぶりを発揮するが、14日目と千秋楽を連勝して8勝7敗の勝ち越し。しかしこの場所の淡白な結果は解説の北の富士に残念がられてしまった(後述)。2014年5月場所は東前頭11枚目の地位で迎え、初日から2連勝、2連敗、3連勝、3連敗、2連勝、2連敗といった具合に珍しい星取を見せ、千秋楽に勝って8勝7敗とした。

2015年6月には4歳年下の一般女性との婚約を発表し年内に入籍した。[8]2016年2月14日には挙式・披露宴が行われ、約600人から祝福された。式には豊響下関後援会の名誉会長を務める安倍晋三首相の妻の安倍昭恵も出席した。前日に首相公邸に招いて豊響夫婦と安倍首相が食事をしたことを明かして安倍首相は、「豊響関はすごい寡黙なのに、なんであんなきれいな奥さんを口説くことができたのだろう」と笑っていたという。[9]

しかし土俵では精彩を欠き、2015年9月場所と2016年5月場所をそれぞれ十両の地位で過ごした。2016年5月場所後には2年ほど右膝半月板損傷に悩まされていたため内視鏡手術を受け、7月場所で躍進を図るも、この場所は14日目に負け越しを喫し、最終的に7勝8敗の成績に終わった。[10]9月場所は6勝9敗と振るわなかったが、15勝全勝でこの場所の幕内最高優勝を果たした同部屋の豪栄道の優勝パレードで旗手を務めた。[11]靖国神社奉納大相撲 豊響関の相手は千代丸関(2017年4月17日撮影)

2017年3月場所は5場所ぶりの勝ち越しで、10勝5敗3人による優勝決定巴戦も制して3度目の十両優勝で締めくくった。続く5月場所の再入幕も濃厚で、優勝に際しては「そこを意識してやってました」としみじみ。「また一から上でやりたいです。来場所も自分らしい相撲をとってがんばりたい」と少ない言葉に力を込めた[12]。場所後の相撲雑誌には「一日三番はさすがにきついが、これで幕内に復帰できます。三役に上がったことがないので、三役を目指したい」という本人のコメントが掲載された[13]

2018年1月3日は出羽海一門の稽古で普通に相撲を取っていたが、数日後に体調を崩し、1月場所は西十両9枚目で不整脈で全休し2007年1月場所より67場所守ってきた関取の座を失うこととなる。そのような中で、1月9日には第一子となる長男が誕生[14]。西幕下14枚目で迎えた7月場所は6勝1敗と復調し、電車道のような出足が戻った。この頃になると「関取衆とも普通に稽古をできるようになった。体重も体の張りも回復してきた」とうなづいていた[15]。9月場所は2番相撲で豊ノ島と対戦し、叩き込みで黒星。この場所は4勝3敗に終わる[16]。東幕下3枚目の地位での勝ち越しだったが、場所後の再十両は結果的に5勝2敗以上の力士が優先され、自身は再十両を逃した。2019年は年間を通して十両昇進の可能性のある幕下15枚目以内に在位したものの十両復帰は果たせなかった。2021年1月場所では西幕下31枚目で全休し、翌3月場所で三段目降格となった。

その後の2場所も全休が続き、三段目71枚目で全休した5月場所後の2021年6月7日、相撲協会は理事会で豊響の引退と年寄「山科」襲名を承認した[17]


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