豊臣秀頼
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「豊臣秀頼」のその他の用法については「豊臣秀頼 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

 凡例豊臣 秀頼
豊臣秀頼像(養源院蔵)
時代安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕文禄2年8月3日1593年8月29日[1][2][3]
死没慶長20年5月8日1615年6月4日[4](23歳没)
改名拾(幼名)→秀頼
戒名帰寂山高陽寺殿秀山大居士
墓所京都市東山区養源院
京都市右京区清凉寺
高野山の奥の院
鹿児島市谷山の墓所
官位従三位左近衛権中将従二位権中納言権大納言正二位内大臣右大臣
氏族豊臣氏
父母父:豊臣秀吉
母:淀殿浅井長政の長女)
義父:徳川秀忠
兄弟石松丸鶴松、秀頼
妻正室:千姫徳川秀忠の娘)従兄弟
側室:和期の方(伊茶、渡辺五兵衛の娘)、小石の方(成田助直の娘)
国松天秀尼
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豊臣 秀頼(とよとみ ひでより / とよとみ の ひでより、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:豐臣 秀ョ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名太閤豊臣秀吉の三男。

秀吉の側室であった茶々(淀殿)の第二子。子は側室・和期の方(名は伊茶。渡辺氏)との間に国松と、小石の方(おいわのかた。成田氏)との間に天秀尼(彼女の生母については異説がある)。位階正二位官職右大臣。幼名は拾丸(ひろいまる)。なお、豊臣とは名字ではなく、本姓である[注釈 1]。乳母は宮内卿局右京大夫局(一説に両者は同一人物共)・正栄尼が伝わる。また、淀殿の乳母である大蔵卿局も養育係を務めた。

秀頼は父・秀吉の意思を継ぎ、秀吉の発願した高さ約19mもある方広寺大仏(京の大仏)及び、それを安置する大仏殿の再建を進めた。しかし、同寺院に納める梵鐘の鐘銘を巡り方広寺鐘銘事件(京都大仏鐘銘事件[注釈 2])が発生し、徳川氏の江戸幕府と交戦することになった(大坂の陣)。この頃にはもはや徳川氏の優位が確立しており、世の趨勢を覆すには至らず、冬と夏の両陣を経て、大坂城が落城し秀頼は自刃。これにより豊臣氏(羽柴宗家)は滅亡した。

秀頼は生前に、戦乱で荒廃していた多数の寺社に寄進を行い、伽藍や社殿の再興を図った。彼の寄進で造立された建造物には、東寺金堂や北野天満宮社殿などがあるが、今日国宝や重要文化財に指定されているものが多く、秀頼の文化的事業に対して一定の評価が与えられている[7](後述の#秀頼の寺社造立を参照)。


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