豊臣秀保
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 凡例豊臣 秀保 / 羽柴秀保
時代安土桃山時代
生誕天正7年(1579年
死没文禄4年4月16日[1][2]1595年5月24日[注釈 1]
改名辰千代[3] /御虎[4]幼名)、羽柴秀保
別名秀俊[注釈 2]
通称:大和中納言、郡山中納言
戒名瑞光院花嶽妙喜[2]または瑞光院華嶽春英[5]
墓所善正寺
官位侍従従四位下参議近衛権中将従三位権中納言、贈大納言[2]
主君豊臣秀吉
氏族木下氏羽柴氏豊臣氏
父母父:三好吉房、母:瑞龍院日秀
養父:豊臣秀長
兄弟秀次秀勝、秀保
妻正室:おみや(豊臣秀長の娘)
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豊臣 秀保(とよとみ ひでやす/とよとみ の ひでやす)/羽柴 秀保(はしば ひでやす)は、安土桃山時代武将大名豊臣秀吉の姉瑞龍院日秀(とも)の子で、後に豊臣秀長の婿養子となる。大和国国主で大和大納言と呼ばれた秀長を継ぎ、官位が中納言であったことから、大和中納言(やまと ちゅうなごん)の通称で呼ばれた。
生涯

天正7年(1579年)、木下弥助(三好吉房)ともの三男として生まれる。幼名は辰千代(たつちよ)[3]、御虎(おとら)[4]。長兄に豊臣秀次、次兄に豊臣秀勝(小吉秀勝)がいる。

関白秀吉の後継者候補となった兄秀次の連枝として幼少より昇進を重ね、天正16年(1588年)1月8日、侍従に任じられた[6]。同年4月の後陽成天皇聚楽第行幸を記した『聚楽亭行幸記』には、「御虎侍従」の名が見える[4]

天正19年(1591年)1月、13歳で、継嗣のなく死の床に就いた叔父秀長の4、5歳になる娘と祝言をあげ[3][7]、養嗣子として披露された[8][注釈 3]。なお、秀保が結婚した相手の女性の名前を記した書物は存在しないが、この秀長の娘というのは天正16年に長谷寺に寄進された金燈籠に彫られている「和州大納言秀長公姫君三八女」と同一人物と考えられ[注釈 4]、三八(みや)または三八女(みやこ)と読むという説がある。

同月に秀長が死去するとその跡を継ぎ、大和郡山城主となった。秀長の家老藤堂高虎桑山重晴が秀保の後見役を務めて、大和・紀伊2か国を継承し、和泉伊賀の一部は収公となった。また従四位下参議近衛権中将に任じられ[6]、豊臣姓を下賜される[9]。天正20年2月10日には春日社で家督始めの祈願を行った。この祈願は大和の寺社と領民などに秀長から秀保への代替わりを披露する目的があった[10]

文禄元年(1592年)1月29日または2月7日、従三位権中納言となり、以降は「大和中納言」または「郡山中納言」と呼ばれた。なお秀保は豊臣家中においては叔父秀長の家を相続したこともあり官位などの面で次兄秀勝よりも上位であり、長兄秀次が関白に就任して以降は豊臣一門衆筆頭の扱いであった[11]。また文禄2年(1593年)5月20日に徳川家康らと連名で提出した起請文においても家康に次いで署名するなど、諸大名中でも家康に次ぐ立場であった[12]

文禄元年4月からの文禄の役では、まず名護屋城普請に参加、次いで兵1万5千を率いて参陣するが、自身は渡海せずに名護屋城下に陣屋を築いて滞在した。その後、藤堂高虎を名代として配下の諸将は出陣し、紀伊の海賊衆を中心に桑山元晴一晴杉若氏宗無心堀内氏善らは朝鮮半島南岸で水軍として戦っている。また本多俊政壱岐勝本城に兵500を率いて在番し、朝鮮渡海軍のための兵站物資の海上輸送と島内の治安維持に当たった。なお『豊太閤三国処置太早計』では、秀吉は中国・朝鮮の征服後、日本の関白職に秀保か羽柴秀家(宇喜多秀家)のどちらかを任命するという計画を持っていたとされる[注釈 5]

文禄2年閏9月25日には、高虎と共に名護屋を引き上げて下関まで戻り、更に秀吉の後を追って上洛した。文禄3年(1594年)2月には、吉野の花見で、秀吉・秀次・菊亭晴季らと5首ほど和歌を詠んでいる。同年5月23日、名護屋城にて明使沈惟敬が秀吉に謁見した際には、徳川家康・前田利家織田秀信小早川秀秋・秀保・上杉景勝の6名は同室で伺候していた[14]

文禄4年(1595年)4月16日[1][注釈 6][注釈 1]に急死した。享年17[1]。秀吉はその死を悼む姿勢を見せず、葬儀を隠密裏に済ませるよう命じたという[15]。死後に大納言を遺贈された。
大和豊臣家の断絶

秀保は従兄妹に当たる秀長の娘・三八女(一説に接頭辞をつけて「おみや」)を正室としていたが[注釈 4]、子女は無く、以前秀長の養子だった仙丸もすでに藤堂高虎の養子となって藤堂高吉と名乗っていたために、大和豊臣家は断絶した。この為、長兄秀次や次兄秀勝と異なり、三兄弟の中で唯一秀保の血筋だけは後世に全く伝わらなかった。
人物
死因について

江戸時代中期の元文5年(1740年)に書かれた『武徳編年集成』では、秀吉の舎弟権大納言秀長の養子、三位法印一路の庶子であるとする豊臣秀俊の死を、文禄3年のこととし、死因を横死とする。「秀俊」は秀保の誤記・誤伝である。『武徳編年集成』は秀俊は無双の悪人であったとし、罪もない士庶を殺害したり、猿沢池法隆寺の池など殺生禁止の場所で網を投げて漁をし、捕った魚を賞味したといった悪行[注釈 7]で、ついに癩疾を煩い、吉野十津川温泉湯治を行った。吉野川上流の上西川の滝の辺りを散策している時、秀俊は、数十丈の断崖より、稚児小姓に飛び降りろと命じた。


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