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豊臣政権
中央政府
豊臣氏紋・桐紋
概要
創設年天正13年(1585年)
解散年慶長8年(1603年)
対象国 日本
政庁所在地山城国 伏見
(現 : 京都府京都市伏見区)
摂津国 大坂
(現 : 大阪府大阪市)
代表豊臣秀吉〈関白・太政大臣〉
豊臣秀次〈関白〉
豊臣秀頼〈右大臣〉
(豊臣氏)
機関
(政権後期の組織)五大老
五奉行
三中老
京都所司代
取次
御伽衆
豊臣政権(とよとみせいけん)は、安土桃山時代の日本における武家政権。豊臣秀吉が、1585年(天正13年)または1590年(天正18年)から創始し、1603年(慶長8年)には完全消滅した。
豊臣氏政権(とよとみしせいけん)・羽柴氏政権(はしばしせいけん)とも言われる。 豊臣秀吉は織田信長の武将として所領を拝領し、当初は信長の代官的存在であったが時代を経て独自の知行宛行などの領国経営を行う地方政権へ移行していった。天正元年(1573年)に浅井氏が滅亡すると、秀吉には「江北浅井跡一職」が信長より恩賞として与えられたといわれるが、管轄範囲としては近江国の伊香・浅井・坂田3郡のうち滅亡時の浅井領であり、長浜城を中心に支配を行った。天正9年(1581年)ごろから長浜領は秀吉の養子であった羽柴秀勝が担当した。 天正5年(1577年)10月から秀吉の播磨侵攻が始まり、天正8年(1580年)4月から5月にかけて播磨国が平定されると、赤穂・佐用2郡を除く播磨国の支配権が秀吉に与えられ、黒田孝高が与力から秀吉家臣となるなど、播磨衆が配下に加わった。 この頃、播磨侵攻と同時期に但馬侵攻も始まっており、竹田城には羽柴秀長が城代として配置された。天正8年(1580年)5月には出石城の攻略により但馬が平定され、秀長や宮部継潤、木下昌利
歴史
地方政権から
天正9年(1581年)10月、秀吉は因幡国鳥取城を攻略し、宮部継潤を城代に置いて支配を開始し、八東郡(鬼ヶ城)に木下重堅、智東郡に磯部康氏・八木重信、巨能郡に垣屋光成、八頭郡に山名氏政、鹿野郡に亀井茲矩、高草郡吉岡に多賀備中の因幡衆を宛った。備前・伯耆についても秀吉は勢力を進めたが、味方となった宇喜多氏などへの処遇は信長が直接行っており、秀吉の直接支配が及ぶのは本能寺の変の後となった[1]。
豊臣政権の始期豊臣秀吉
豊臣政権の始期については諸説がある[2]。 天正10年(1582年)6月2日、織田信長が明智光秀によって討たれた(本能寺の変)。このとき、中国方面総司令官として備中にあった信長の家臣羽柴秀吉は、直ちに毛利輝元と講和して軍を東に返して、明智光秀を討った(山崎の戦い)。主君の仇・光秀を討った功績によって発言力を増した。 清洲会議において信長の後継者が話し合われると、柴田勝家が織田信孝(信長の三男)を推薦したのに対し、まだ幼児だった三法師(当時の織田家当主・織田信忠の嫡男、信長の孫)を擁立し、柴田らと対立。会議の結果、三法師を後継者とし、信孝がその後見役につくということで織田政権が継承されることとなった。 ここから秀吉は信長の息子たちを排除していく。まず柴田勝家の息子・勝豊を攻めて降伏させ、信孝を孤立させ、彼から三法師を奪う。これで当主の代理という立場を得た秀吉は、1583年、柴田勝家と織田信孝を賤ヶ岳の戦いにおいて滅ぼし、他の重臣の滝川一益を降した。そして前田利家や金森長近らを味方に引き入れる。 これに不満を持った織田信雄(信長の次男)が、天正12年(1584年)に信長の盟友であった徳川家康と結んで、反秀吉の兵を挙げる。兵力的には秀吉軍が優勢であったが、家康の戦術の前に秀吉軍は小牧・長久手の戦いで局地的に敗れた。しかしその後、織田信雄は秀吉の兵力に圧迫され、家康に相談なく秀吉と単独講和してしまう。これにより家康も秀吉と戦うための大義名分を失い、ひとまず秀吉と和睦した。 天正13年(1585年)、秀吉は前年・前々年の戦いで常に自らの背後を脅かした紀伊の諸勢力(紀州攻め)、四国の長宗我部元親(四国平定)を相次いで攻略した。 同年7月、秀吉は二条昭実と近衛信輔との間で朝廷を二分していた関白相論に介入して、正親町天皇に関白に任じられ、翌年には豊臣姓も下賜された。
天正11年(1583年)5月説 - 朝尾直弘は統一支配者としての自覚を持ち、諸大名の国替・改易を執行し、大坂城の築城と京都掌握によって畿内を支配したことから、賤ヶ岳の戦い直後としている。
天正11年(1583年)6月下旬から7月中旬説 - 尾下成敏は織田信雄が安土城を退いた時期としている。
天正13年(1585年)3月 - 藤田達生は天正10年(1582年)6月の本能寺の変の後も10月に織田信雄が事実上の家督に就いて織田政権を継続したことから、小牧・長久手の戦いに敗北した信雄が上洛して臣従し、官位が上回った時期としている。
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