豊田英二
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とよだ えいじ
豊田 英二
豊田英二
生誕 (1913-09-12) 1913年9月12日
愛知県西春日井郡金城村
死没 (2013-09-17) 2013年9月17日(100歳没)
愛知県豊田市
死因心不全
国籍 日本
出身校東京帝国大学工学部卒業
職業実業家
配偶者豊田寿子(
子供豊田幹司郎長男
豊田鐵郎二男
豊田周平三男
親豊田平吉(
親戚豊田佐吉伯父
豊田佐助叔父
豊田芳年
豊田喜一郎従兄
豊田章一郎従甥
豊田達郎(従甥)
豊田章男従姪孫
豊田達也(従姪孫)
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豊田 英二(とよだ えいじ、1913年大正2年)9月12日 - 2013年平成25年)9月17日)は、日本実業家位階正三位勲等勲一等豊田佐吉の甥。

トヨタ自動車工業株式会社社長(第5代)、トヨタ自動車株式会社会長(初代)、同社名誉会長(初代)、同社最高顧問(初代)、社団法人日本自動車工業会会長(第2代)、財団法人トヨタ財団理事長(初代)、学校法人トヨタ学園理事長(初代)、学校法人トヨタ東京整備学園理事長(初代)、助成財団資料センター(現公益財団法人助成財団センター)理事長(初代)などを歴任した。石田退三と共に[1][2]「トヨタ中興の祖」と呼ばれている[3][4][5]
来歴・人物
生い立ち

愛知県西春日井郡金城村(現・名古屋市西区堀端町)に豊田平吉の二男として生まれた。

平吉は明治の末期に兄佐吉から独立、織機を据えてを織る工場を持った[6]

愛知県立第一中学校第八高等学校(現・名古屋大学)を経て、1936年東京帝国大学工学部機械工学科を卒業。豊田自動織機に入り、自動車部に配属され[7]東京市本郷区曙町(現本駒込)の豊田喜一郎宅に下宿し、豊田自動織機製作所自動車部芝浦研究所に勤務した。また多忙な喜一郎に代わり、豊田章一郎の中学校入学式に父兄代行として出席するなどした[8]
トヨタ自動車1958年頃の豊田英二

日中戦争中、菅隆俊のもと、岩岡次郎齋藤尚一と挙母工場(のちのトヨタ自動車本社工場)建設構想にあたった[9]1941年に日本が第二次世界大戦に参戦すると、トヨタの生産能力は軍のトラック製造に向けられた。そのため航空機開発は中断された。戦後GHQ財閥解体はトヨタにも影響を及ぼしたが、代わりにその後トヨタは自動車の製造によって日本の再建の一端を担うこととなる。しかし需要の増加にもかかわらず、終戦直後はほとんど破産しかかった状態で、大規模なリストラによって難をしのいだ形となった。

1945年取締役就任。日本の降伏後の混乱の中、豊田喜一郎から瀬戸物業を命じられ、岐阜県多治見市に通う日々が続いた[10]

その後常務、専務を歴任し、1967年10月、中川不器男社長(三井銀行出身)の急逝に伴い社長に就任。工・販統合直前の1982年6月まで14年9か月にわたって社長を務めた。[11]。この間、1973年から日本自動車研究所理事長[12]日本自動車工業会会長なども兼任。

1982年の工販合併を機に豊田喜一郎の長男である豊田章一郎に社長を譲り代表取締役会長となる。
晩年

1992年に代表取締役会長を退任し、取締役名誉会長となる。1994年には取締役を退任し、非取締役の名誉会長となる。1999年に名誉会長の座を豊田章一郎に譲り、最高顧問となった。その後、死去するまで最高顧問を務めた。2000年豊田市名誉市民。

2002年に妻・寿子が死去し、豊田市に遺産1億が寄付された。英二本人も2010年2月より体調を崩し、豊田市のトヨタ記念病院に入院していた。入院中、見舞いに訪れた当時社長の豊田章男を叱咤激励していたという[13]

2013年9月17日、心不全で死去[14]。100歳没(享年101)。墓所は覚王山日泰寺。10月8日の閣議正三位に叙されることが決定した[15]。2014年、長男の豊田幹司郎・アイシン精機(現:アイシン)会長ら遺族から遺産10億円が豊田市に寄付された[16]
顕彰

1994年米国自動車殿堂入り(日本人としては本田宗一郎に次ぐ)、翌1995年にはイギリス機械学会からジェームズ・ワット国際金賞を受賞した。1999年にはアメリカの週刊誌「タイム」で「今世紀もっとも影響力のあったアジアの20人」の一人に選出(日本人で他に選出者は昭和天皇盛田昭夫黒澤明三宅一生井上大佑)。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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