.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}豊田(とよだ) 穣(みのる)
生誕1920年3月14日
死没 (1994-01-30) 1994年1月30日(73歳没)
所属組織 大日本帝国海軍
最終階級 海軍中尉
除隊後新聞記者、作家
墓所冨士霊園
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豊田 穣(とよだ じょう、1920年〈大正9年〉3月14日 - 1994年〈平成6年〉1月30日)は、日本の小説家、作家、海軍軍人。海兵68期。最終階級は海軍中尉。本名は豊田 稔(とよだ みのる)。 満州の四平街に生まれる。その後、郷里の岐阜県本巣郡穂積町(現・瑞穂市)へ戻り、1937年(昭和12年)3月、岐阜県立本巣中学校(現・岐阜県立本巣松陽高等学校)を卒業。 1937年(昭和12年)4月、海軍兵学校に入校。1940年(昭和15年)8月、卒業(68期)。同期に鴛淵孝、伴勝久、広尾彰、松永市郎、酒巻和男がいる。 1941年(昭和16年)4月、第36期飛行学生になる。12月8日、真珠湾攻撃が行われ、特潜で出撃した10名のうち、酒巻和男が捕虜となる。当時豊田は霞ヶ浦海軍航空隊附飛行学生であったが、既に軍内部でもその噂は広まっており、同期の一人が「酒巻の奴、自決してくれないかなぁ。クラスの名誉にかかわるからなぁ」と言うのを聞いたという[1]。 1943年(昭和18年)4月3日、い号作戦に参加のため、ラバウルに移動[5]。7日、九九艦爆を操縦しガダルカナル島飛行場攻撃の際、ソロモン方面サボ島沖でグラマンに撃墜され、偵察員の祖川兼輔
経歴
生立ち
海軍時代
豊田は、捕虜になった時から名前は大谷誠、東京市四谷区出身で商船学校出の輸送機パイロットを名乗っていたが、辻褄が合わない陳述でベテランの尋問官をだますことは出来ず、早くも2日後には海兵出身の零戦パイロットであることを自白する[8]。尋問官からは「利口な嘘つき能力の持ち主」と皮肉られた[8]。口が堅く嘘が多かったことから重要な情報を隠していると思った米軍はさらに追及を続け、真っ暗な独房で2週間尋問を受けた事もあった[6]。その結果、零戦の性能や装備、ほかの空母の性能や消息、最高機密である大和の速力、主砲の口径まで自白してしまう[8]。
またある時、捕虜とはいえ敵兵である豊田は真珠湾にて主力空母である空母エンタープライズの内部を見学を願い出、実現した[8]。なおこの時、案内役の副長に誘導され、隼鷹の構造や性能を自白してしまっている[8]。
アメリカ合衆国本土移送後、シカゴ西北のマッコイ捕虜収容所への移送が決まり、1944年4月8日夕方、スパルタ駅に到着。