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とよだ りさぶろう
豊田 利三郎
豊田の肖像写真
生誕1884年(明治17年)3月5日
滋賀県彦根市
死没 (1952-06-03) 1952年6月3日(68歳没)
墓地名古屋市の覚王山日泰寺
出身校神戸高等商業学校(現・神戸大学)
東京高等商業学校(現・一橋大学)
職業初代:豊田自動織機製作所社長
初代:トヨタ自動車工業社長
第3代:豊田紡織社長
初代:豊田工機社長
初代:豊田製鋼社長
第2代:豊田紡織廠社長
子供豊田幸吉郎(長男)
豊田大吉郎(二男)
豊田信吉郎(三男)
豊田禎吉郎(四男)
親戚石田退三
家族児玉一造(兄)
児玉桂三(弟)
栄誉従五位勲四等瑞宝章
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豊田 利三郎(とよだ りさぶろう、1884年(明治17年)3月5日 - 1952年(昭和27年)6月3日)は、日本の実業家。位階は従五位。勲等は勲四等。
株式会社豊田自動織機製作所社長(初代)、豊田紡織株式会社社長(第3代)、トヨタ自動車工業株式会社社長(初代)、豊田工機株式会社社長(初代)などを歴任した。 豊田佐吉の婿養子(長女愛子の夫)で、豊田自動織機製作所及びトヨタ自動車工業の初代社長である。ただし、トヨタ自動車工業の実質的な創業者は、佐吉の実子で利三郎の義弟にあたる豊田喜一郎であるとされる。利三郎は元々は車作りに反対していたが、喜一郎の細かい計画や上海自動縫の西川からの資金援助で豊田自動車(後のトヨタ自動車)を設立した。 1884年(明治17年)、現在の滋賀県彦根市生まれ、旧姓児玉利三郎。神戸高等商業学校(現・神戸大学)卒業。東京高等商業学校(現・一橋大学)専攻科卒業(商業学士)。卒後、伊藤忠商店(現・丸紅)に就職。翌年に新設されたマニラ支店の初代支店長を歴任。 三井物産綿花事業部長で、後に東洋棉花株式会社(後のトーメン、現在の豊田通商)の創業者・初代社長となる実兄の児玉一造が豊田佐吉の自動織機事業の理解者であったことから、1915年(大正4年)に豊田家の婿養子に迎えられた。妻の愛子は喜一郎の妹であるが、利三郎自身は喜一郎より年上であるため、旧戸籍法のもとでは、喜一郎の義兄ということになる。 1926年(大正15年)11月18日の豊田自動織機製作所設立に際し初代社長となり[1]、1933年(昭和8年)愛知発明協会会長に就任[1][2]。1936年(昭和11年)10月23日には豊田佐助の後を受け豊田紡織社長も兼務した[3]。1937年(昭和12年)に同社自動車部が独立してトヨタ自動車工業が設立されるとその初代社長となった。その後、1941年(昭和16年)1月に喜一郎に社長を譲って会長となり、同年豊田工機社長も兼務した[4]。 豊田製鋼社長、中央紡織
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