豊橋鬼祭
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豊橋鬼祭
赤鬼と天狗のからかい
イベントの種類祭り
国の重要無形民俗文化財[1]
通称・略称鬼祭
(別称)からかい祭[2]
正式名称豊橋神明社の鬼祭[3]
開催時期2月10日 - 2月11日
会場愛知県豊橋市
来場者数約6万人
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豊橋鬼祭(とよはしおにまつり)は、毎年2月10日から11日にかけて愛知県豊橋市で開催される祭礼行事。1000年以上の歴史を有する伝統行事であり、1954年3月12日に愛知県指定無形民俗文化財、1980年1月28日に国の重要無形民俗文化財に指定[3]。重要無形民俗文化財としての指定名称は豊橋神明社の鬼祭(とよはししんめいしゃのおにまつり)[4]

安久美神戸神明社の春の例祭で行われる数々の神事の総称である[3][4]。神事のひとつ、荒神である赤鬼を天狗が退散させ天下を清める様子を具現化した「赤鬼と天狗のからかい」がとくに知られ[3]、この一幕をもって「鬼祭」と称する場合もある[5]。赤鬼が浄罪として撒き散らすタンキリ飴の飴粉で見物客は全身を真っ白に染められることから、「天下の奇祭」と称する[6][7]
概要

毎年2月10日から11日にかけて奉納される安久美神戸神明社の春の例祭であり[4]、少なくとも1,000年以上の歴史を有すると考えられている[8]。飽海郷を中心とした周辺地域の五穀豊穣を祈る田楽を主とした祭礼行事を発祥とし[9]、江戸時代初期に賑やかな都市的な祭礼行事へと変化しつつ、古式を崩さず継承されながら神楽と田楽の融合著しい点が特徴とされ[10]、一連の神事は日本全国でも類例はきわめて少ない[6]。安久美神戸神明社の氏子各町が専任で祭礼の各役を担い、代々、継承されている[11]

豊橋では「鬼祭が終わるとあたたかくなる」といわれ、春を告げる祭とみなされる[10]。神事は多岐にわたるが、主なものに神楽、田楽、歩射神事、御玉引の占い、御神幸の5点があり[10]、田楽の一部である「赤鬼と天狗のからかい」がとくに知られている[12][5]。祭りのクライマックスで鬼たちが撒くタンキリ飴の粉を浴びると、福がもたらされるとされる[13]。2018年(平成30年)、この町内を走り回る赤鬼や天狗の現在位置をスマートフォンで把握できるアプリ「おにどこ」を、豊橋技術科学大学の2研究室と民間企業が共同開発し、以降毎年の本祭(2月11日)当日のみ運用されている[14]

東三河地方でもっとも賑やかな祭といわれ[2]三河地方を代表する祭のひとつに数えられる[9]。また羽田八幡宮の花火、吉田神社祇園祭とあわせて、「豊橋三大祭」とも位置付けられる[15]

豊橋鬼祭の赤鬼

タンキリ飴をばらまきながら子鬼が社参する

厄除飴まき行事

豊橋鬼祭 門寄り道中で飴粉をあびた人々

門寄りの道中でタンキリ飴と飴粉が撒かれた様子

歴史

940年天慶3年)に創建された安久美神戸神明社の正月行事である[16]平将門の乱の鎮圧を祈願した伊勢神宮への報賽として、朝廷から献上された神領地の安泰と繁栄、厄除けや五穀豊穣を願った神事が起源とされる[16][8][17]。鬼祭そのものは神社の創建以前に存在したとみられているが、確かな記録は残されておらず、この神事が追儺であるとする伝承は伝わっていない[10]。一方で、正月行事として厄払いのような神事があるため、これが「鬼追い」ではないかとみなされている[17][10]。もともとは平安時代後期から鎌倉時代にかけて流行した獅子頭を掲げる「御頭様」を中心に行われた獅子田楽とみられるが[10]、21世紀初頭には獅子頭は神に昇格し、御船代に納めて安久美神戸神明社の南に面して祀られている[18]

21世紀初頭に引き継がれている鬼と天狗面のような具体的な形は、少なくとも戦国時代には形作られたものとみられ、当時この地域を治めていた今川義元が寄進したとされる赤鬼と天狗の神面がある[19]1590年(天文19年)の宝殿造営の頃とみられる[17]。1940年(昭和15年)には、安久美神戸神明社の鎮座千年などを祝して、豊橋市出身の実業家であり、旧宮司家の司忠によって赤鬼と天狗の神面が寄進された[20]。2019年(令和元年)から2023年(令和5年)には、平成から令和への改元を祝して、約80年ぶりに神面が新調される[20]

「鬼祭」の名称は、1554年(天文23年)に13歳だった徳川家康(幼名「竹千代」)が「神事鬼祭御覧あり」とする記録が最古のものと考えられる[17]。1603年(慶長8年)に旧宮司の司守信が伏見城で謁見した折、家康から幼少期に見た神事について問われており、「司天師田楽」についての下問であったと記録される[21]

豊橋鬼祭は、町が急速に整備された江戸時代初期に、従来の農村らしい田楽中心の神事が、次第に華やかな「からかい」中心の都市的行事に発展したと推定されている[22]。その一方で、豊作年を祈る特殊神事としての田楽の一部は、奉納舞などに古式を崩さずに継承され、平安時代から鎌倉時代にかけて流行した農村田楽と、神楽に表現される日本の建国神話の要素が混在する祭礼として、引き継がれた[8]。神事であるため戦時中も途切れることなく催行され[23]、20世紀半ばの時点で、最も盛大な都市型祭礼のひとつとみなされている[24]。1954年3月12日に愛知県指定無形民俗文化財、1980年1月28日に国の重要無形民俗文化財に指定された[3]

豊橋鬼祭の日程は、古くは旧暦正月14日あるいは15日に行われたが、19世紀中頃には2月15日に移行しており[6]、1928年(昭和3年)の記録では2月節分の夜に行われている[13]。1968年(昭和43年)に新たな祝日として建国記念の日が制定されるに伴い、2月11日を本祭とする[16][5][23]。江戸時代には、正月15日に管粥神事を、正月21日に湯立神事を行ったとする記録もあるが、仔細は不明である[25]

2月10日・11日に行われる安久美神戸神明社の例祭以外では、愛知県内における公的機関の開催行事などで披露されたことがあった[8]。2018年(平成30年)11月24日には、東京都の六本木ヒルズで開催された豊川用水の通水50周年記念イベント「エロティック東三河」の中の一行事として、歴史上初めて愛知県外で「赤鬼と天狗のからかい」が披露された[8]

安久美神戸神明社

祭の神事の多くが執り行われる儀調場

祭礼当日(宵宮)の儀調場。底上げされ、舞台がつくられている

徳川家康が祭を見物した場所(東照宮(家康公)御腰掛松)

祭礼次第と運営体制@media all and (max-width:720px){body.skin-minerva .mw-parser-output div.mw-graph{min-width:auto!important;max-width:100%;overflow-x:auto;overflow-y:visible}}.mw-parser-output .mw-graph-img{width:inherit;height:inherit}.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

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[全画面表示]安久美神戸神明社の氏子14町
1 安久美神戸神明社
2 飽海町
3 旭町
4 旭本町
5 西新町
6 八町通三丁目
7 札木町
8 呉服町
9 中世古町
10 八町通四丁目
11 八町通五丁目
12 曲尺手町
13 鍛冶町
14 談合町
15 前田町一丁目

氏子各町が専任で祭礼の各役を担うことで、代々、古式を崩さず継承されている。戦火により役が他町に移行した後には、新たに役を設けてそれを継承するなど、古式を尊重しつつ時代による変遷もみられる。氏子の区域は飽海、吉田、中世古、呉服町、曲尺手町、札木町、鍛冶町、今新町、八町通り[注 1]である[26]

1963年(昭和38年)に結成された「豊橋鬼祭奉賛会[注 2]」や、1978年(昭和53年)に結成された「豊橋鬼祭保存会[注 3]」を中心に豊橋市内の9町が役を担う[27][11]。氏子各町にもそれぞれ神事の保存会があり、所作や装束の継承に努めている[11]

安久美神戸神明社で奉じられる神事のほとんどは、社殿の前に設けられた儀調場で行われる[11][28]。儀調場は、八角形をした石造りの小上がりの場所でたんに「八角台」とも称するが、かつて左義長(さぎちょう)が行われたとも、毬打場(ぎっちょうば)であったともいわれ、名の由来は諸説ある[11]。このような儀調場は全国的にみても珍しく、安久美神戸神明社の他数か所のみとされる[28]。安久美神戸神明社の神職は、代々、伊勢神宮から下向した際の神宮祭主の裔である司家が世襲する[26]。司家は、磯部、清水、川野の諸家に伴われて飽海に来て、司氏と共に祭に携わった[26]
宵祭(10日)

1955年昭和30年)に八町通三丁目に地元住民の要望から青鬼が生まれ、以降、宵祭において「岩戸開きの神事」などを奉納する[29]


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