豊州_(内モンゴル自治区)
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豊州(豐州、ほうしゅう)は、中国にかつて存在した隋代から明代にかけて、現在の内モンゴル自治区バヤンノール市南部に設置された。
隋代

585年開皇5年)[1]、隋により豊州が置かれた。九原県永豊県が新設され、豊州の管轄下に入った。591年(開皇11年)、安化県が新設され、豊州の管轄下に入った。607年大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、豊州は五原郡と改称され、下部に3県を管轄した[2]。隋代の行政区分に関しては下表を参照。

隋代の行政区画変遷
区分開皇5年区分大業3年
州豊州郡五原郡
九原県
永豊県九原県
永豊県
安化県

唐代

630年貞観4年)、東突厥を滅ぼすと、下部に県を管轄しない豊州都督府が置かれた。637年(貞観11年)、豊州都督府は廃止され、その地は霊州に編入された。649年(貞観23年)、再び豊州が置かれた。742年天宝元年)、豊州は九原郡と改称された。758年乾元元年)、九原郡は豊州の称にもどされた。豊州は関内道に属し、九原・永豊の2県を管轄した[3]

唐代の行政区画変遷
区分貞観4年貞観23年天宝元年乾元元年
州豊州都督府豊州九原郡豊州
県無九原県
永豊県
軍-天徳軍[4]

宋代

911年乾化元年)、五代後梁により豊州は天徳軍と改められた。920年神冊5年)、契丹耶律阿保機により天徳軍は攻め落とされ、応天軍と改称された。まもなく再び豊州の称にもどされた。豊州は西京道に属し、富民振武の2県を管轄した[5]

1041年慶暦元年)、李元昊が豊州を攻め落とした。1062年嘉祐7年)、北宋府州の蘿泊川掌の地に豊州を再建した。豊州は河東路に属し、永安・保寧の2鎮を管轄した[6]

のとき、豊州は西京路に属し、富民県と振武鎮を管轄した[7]
元代

のとき、豊州は大同路に属した[8]
明代

洪武年間、により豊州は廃止された。1426年宣徳元年)、再び豊州が置かれた。正統年間に豊州は廃止された[9]
脚注^隋書』『太平寰宇記』による。『元和郡県志』では582年(開皇2年)の設置とする。
^隋書』地理志上
^旧唐書』地理志一
^ 754年(天宝13年)に設置
^遼史』地理志五
^宋史』地理志二
^金史』地理志上
^元史』地理志一
^明史』地理志二










隋朝の行政区分

 606年大業2年)以前(州制)

雍州地区

雍州

同州

岐州


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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