豊川鉄道
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豊川鉄道
明治期の豊川鉄道(1897年)
種類株式会社
本社所在地 日本
愛知県豊橋市花田町字石塚90[1]
設立1896年(明治29年)2月1日[1]
業種鉄軌道業
事業内容旅客鉄道事業、倉庫業、遊園地事業 他[1]
代表者社長 藍川清成[1]
資本金6,480,000円(払込額)[1]
発行済株式総数144,000株(内新株48,000)[2]
主要株主

愛知証券保有 46,871株

名岐自動車 7,825株

明治屋 7,545株

末延三次 2,415株

三信鉄道 2,100株

小島傳作 2,025株
(1942年3月末現在)[2]
特記事項:上記データは1943年(昭和18年)4月1日現在[1]
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豊川鉄道株式会社(とよかわてつどう)は、現在の東海旅客鉄道(JR東海)飯田線の前身となる鉄道路線を運営していた鉄道会社愛知県豊橋市に本社があり、末期は名古屋鉄道の傘下にあった。

吉田駅(現・豊橋駅)から長篠駅(現・大海駅)までの区間および豊川駅から西豊川駅までの支線を運営し、吉田駅から平井信号所までは愛知電気鉄道(後の名古屋鉄道)と線路を共用していた。小坂井駅から愛知電気鉄道の直通電車が運転された関係(名鉄小坂井支線を参照)で豊川駅まで複線化され、豊川駅を改築して階上に売店・映画館を設けたり、長山駅前に長山遊園地を作って集客に努め、乗車実績も飯田線の前身企業では最も良かったが、1943年(昭和18年)に路線が国鉄戦時買収され、翌年には会社自体も名古屋鉄道へ合併された。
歴史
創業期

1893年(明治26年)6月5日、愛知県渥美郡豊橋町(現・豊橋市)の加治千萬人(豊橋銀行専務)ほか16名[3](再申時21名)は、資本金5万円の豊川鉄道株式会社の設立を発起し、宝飯郡下地町(現・豊橋市)より牛久保町(現・豊川市)を経て豊川町(同上)に至る、豊川稲荷の参詣客輸送を目的とした全長約4マイル(約6.4km)の鉄道敷設を請願した。官設鉄道(東海道線豊橋駅とは豊川を挟んで対岸にあたる下地を起点としたのは、豊川への架橋を避けて建設費用をおさえたかったためである。軌間を2フィート6インチ (762mm) としたのも、わずか4マイルの鉄道では官設鉄道と接続する必要はないため、としていた。

ところが競願者の御油鉄道が現れたため、対抗上豊川町より南設楽郡新城町(現・新城市)までの約8マイルの延長と、豊川町より国府町(豊川市)へ至る支線も追加し、前回の回答を待たずに30日に追願書を提出した。これらは1894年(明治27年)1月に開かれた第3回鉄道会議により審議されたが、この2社以外に東参鉄道(東三鉄道)が申請されており会議は紛糾。結局豊川鉄道、御油鉄道共々却下されてしまった。4月になると東参鉄道は他の勢力と合同し再申請した。内容は官設鉄道豊橋駅より新城を経由して南設楽郡海老村鳳来町を経て現・新城市)に至る路線で軌間を3フィート6インチ (1067mm) としていた。この計画は豊川鉄道と路線が一部重複しているため、豊川鉄道は抗議し先願権を主張して陳情を繰り返した。6月の第4回鉄道会議において豊川鉄道と東参鉄道は審議にかけられたが前回同様紛糾した。結局豊川鉄道の先願権が認められたが「軌間を1067mmとすること」「新城より南設楽郡信楽村大字大海(現・新城市)までの約4マイルを延長すること」などの条件を提示された。これにより資本金を40万円とし、軌間を1067mmとし、路線を下地町より豊川、新城を経て大海に至る約17マイル(約27.4km)とする訂正願書を8月20日提出した。こうして12月5日に仮免状が豊川鉄道に下付され東参鉄道は却下となった。

やがて1896年(明治29年)1月24日に免許状が下付され、2月1日会社を資本金40万円で設立。社長に横山孫一郎(帝国ホテル取締役)、専務に西川由次が就任し、本社を豊橋町に定めた。また起点を豊橋駅に接続すべく渥美郡花田村(現・豊橋市)に変更(5月に認可)したが、豊川の架橋費が10万円だったので結局資本金は当初の5万円から50万円となった。そして工事は12月より開始され、ほとんど平坦でトンネルもなかったので1897年(明治30年)7月15日より豊橋 - 豊川間が開通したのをはじめ同月22日一ノ宮まで、1898年(明治31年)4月25日には新城まで順次開業し、大海(長篠)まで全通したのは1900年(明治33年)9月23日であった。

こうして開業した豊川鉄道であったが経営は非常に不安定であった。その一つが豊川鉄道株買占め事件である。1900年6月頃から岐阜県多治見の西浦仁三郎が仲買人松谷元三郎、横山源太郎らを使い豊川鉄道株の買占めを始め、やがて50円払込の株価は63円と高騰した。有力な仲買人は実勢を無視した株価に警戒感をいだき、東京株式取引所も注視するところとなっていた。この買占めにより株主は188名から55名の1/4に減少し、また豊川鉄道役員も高値につられ株を手放す者が続出し会社を離れる者さえいた。結局この仕手戦は西浦らの失敗に終わり[4]、豊川鉄道の買占め騒動は終焉した。だが西浦に融資していたのが帝国商業銀行、浪速銀行、東京海上[5]などで、買占められた株式は各金融機関へ代物弁済されたとみられる。

もうひとつは巨額の借入金を抱えていたことである。前述のように資本金は50万円であったが建設費は全通時の明治34年度には103万円となっていた。この不足分は借入金に依存し、1897年(明治30年)3月に9万円の借入金を行ったが年々増加し明治33年度には借入金総額は49万9千円となっていた。1901年(明治34年)4月に3万円の約束手形が弁済できず帝国商業銀行より運輸収入の差押[6]を受けたとき、豊橋銀行[7]、浪速銀行、帝国商業銀行、第一銀行第三銀行横浜正金銀行愛知銀行、日本貿易銀行などの各銀行から総額100万円の借入金があった[8]。そして浪速銀行、帝国商業銀行、二十二銀行、露清銀行[9]から破産申請や差押を相次いでおこされた[10]。資金繰りに窮した豊川鉄道は同年5月に総額30万円の社債を発行しようとした。利率は12%と高利であったが信用の失墜した豊川鉄道に応募する者はなく、翌年3月13日付で社債発行を断念し、負債総額に相当する100万円優先株の発行を認可された[11]。同年6月に社長の横山孫一郎をはじめ全役員が辞任し、かわって社長に百三十銀行頭取松本重太郎、取締役支配人に村野山人[12]、取締役には浪速銀行常務山中隣之助、東京海上会長末延道成、監査役に帝国商業銀行会長馬越恭平が就任した。1904年(明治37年)6月には松本の辞任[13]により末延が取締役会長となった。
中興の祖・倉田藤四郎

1910年(明治43年)上期の決算時に不正が発覚した。経理部長が相場に手を出し32,000円を使い込みしたもので、親戚である支配人の西川[14]に自白した後に豊川に投身自殺した。このため西川は私財を処分して損害を補償した後支配人を辞任した。末延は以前北越鉄道取締役であったが、そのときの部下の倉田藤四郎[15]を1910年10月に支配人に迎えた。豊川鉄道の経営をまかされた倉田は1911年(明治44年)、1913年(大正2年)にそれぞれ20万円の減資を断行し、不良債権の整理を始めた。また荷札の針金一本無駄にしないなど節約を推進した。ホームで鶏の飼育もおこなわれた。ただ従業員の賃金も抑制したため1919年(大正8年)にストライキが発生してしまった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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