この記事には複数の問題があります。改善
やノートページでの議論にご協力ください。とよかわ じょう
豊川誕
本名本田孝→下薗孝
別名義豊川ジョー、本田誕、神愛情
生年月日 (1958-10-05) 1958年10月5日(65歳)
出身地日本・兵庫県姫路市
身長171cm
血液型O型
職業歌手
活動期間1974年[1]-
配偶者なし(婚姻歴あり)
テンプレートを表示
豊川 誕(とよかわ じょう、1958年10月5日[2] - )は、日本の歌手。兵庫県姫路市出身[3]。身長171cm[4]。血液型はO型[2][3]。
略歴
1961年10月、推定2歳の時に兵庫県姫路市の大手前公園横に遺棄されている所を保護される[5]。当時の姫路市長・石見元秀が「本田孝」(ほんだ・たかし)と名付け、発見日より約3年前の「1958年10月5日」を推定の生年月日とし、同市の児童養護施設「 ⇒信和学園」にて育つ[6]。
1971年3月、児童養護施設を出て、同年4月から兵庫県相生市の里親夫婦の家に移住し、中学校に通う。
1974年3月、中学校卒業後は里親の元を離れ[7]、同年4月、全寮制の日本国有鉄道関西鉄道学園鷹取分所(その後廃止)に入り、神戸市立大和田工業高等学校定時制(2007年3月31日閉校)[8]に通うも、1学期をもって中退。同年8月、大阪市に出て、市内の飲食店でアルバイトをしている時にジャニー喜多川にスカウトされた[9]。同年11月2日に上京、「ジャニーズ・ジュニア第3期生」としてジャニーズ事務所に入所した。芸名は豊川稲荷東京別院に因んでメリー喜多川によって命名された[10]。
1975年3月21日、CBS・ソニー(現:ソニー・ミュージックレーベルズ)から『汚れなき悪戯』でレコードデビュー。
1977年10月末、ジャニーズ事務所を離れ活動を休止したが[11]、CBS・ソニーとの契約は残っており[12]、1978年6月、フリーで歌手活動再開。その後矢沢永吉の関係者が豊川の個人事務所として設立したエクサエンタープライズに所属し、「豊川ジョー」名義で再デビュー[13]。自身のファンクラブの社長も兼ねた[13]。同年8月、東京・青山タワーホールにて復帰コンサートを開催[13]。名古屋市、大阪市、姫路市とコンサートツアーを行い成功を収めるも、同年10月発売と予告されていた新曲のリリースに至らず、1979年4月、ジャニーズ事務所に復帰。同月の川崎麻世のコンサートにゲスト参加したが、なおも新曲のリリースが叶わず、翌5月に再びジャニーズ事務所を退所。
1979年8月、ロープロモーション(社長:長沢ロー)[14]に入り[15]、活動再開。1980年10月に「オール・ジャパン・デビル・バンド」名義で『トゥモロー』をリリース。 続いて1981年1月には『愛したら最後』をソロでリリースした。その後は本名「本田孝」名義でバンド活動を行ったほか、「芸能人水泳大会」や往年のアイドルを集めたテレビ番組などにも出演した。
1980年代から1990年代には、飲食店、旅行会社、芸能事務所など、様々な事業を展開。また、プロボクサー、プロバイク・カーレーサーなども経験している。80年代後半から手掛けていたギフトショップ関連の事業はある程度の成功を収めており、その事が後の『週刊文春』などのジャニーズ批判報道から一定の距離を置いていた理由とされる[16]。
「本田誕」名義で俳優転身を図るも果たせず、芸名を「豊川誕」に戻す。
「神愛 情」(じんあい じょう)は作曲家としてのペンネームで、『泣き虫横丁涙雨』など多数の曲を出している。
2011年1月21日、歌謡曲のCD『愛は咲き頃』をリリース。
2013年9月8日、演歌のCD『北限の宿』をリリース。
前妻とは別の女性との間に儲けた男子が1人あり、ジャニーズ事務所に入所させようとしたものの叶わず、一時期自分が社長を務めていた芸能事務所に所属させていた。
2019年9月4日、東京ドームで行われた二部制(第一部:芸能関係者、第二部:一般参列者)のジャニー喜多川「お別れの会」に参列した[17]。
主な出演作品
テレビドラマ
ブラザー劇場 刑事くん 第4部・第48話「星めぐり?愛のきらめき」(1975年10月6日、TBS)
刑事物語・星空に撃て! 第1話「知りすぎた女子高生」(1976年10月4日、フジテレビ)
特捜最前線 第248回「殺人クイズ招待状!」(1982年2月17日、テレビ朝日)