豊岡城
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兵庫県
豊岡城・本丸
別名亀城
城郭構造平山城
築城主宮部継潤
築城年天正8年(1580年)
主な改修者京極高盛(陣屋建設)
主な城主垣屋氏[1]、宮部氏、明石氏、杉原氏、京極氏
遺構天守台跡・本丸跡・萩の丸跡・笠の丸跡・旧豊岡県庁の正門
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度32分23.111秒 東経134度49分14.51秒 / 北緯35.53975306度 東経134.8206972度 / 35.53975306; 134.8206972
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豊岡城(とよおかじょう)は、但馬国城崎郡[注 1]豊岡(現・兵庫県豊岡市京町)にあった日本の城。別名・亀城[2][1]
沿革

伝承では、永享年間(1429年?1441年)、山名持豊(宗全)により、此隅山城の出城として、標高約49mの亀山[注 2]に木崎城(城崎城)[4]が築かれたとされる[5]山名氏のもとでは、山名四天王に数えられた垣屋氏が配されたとする[5]

天正8年(1580年)、織田信長の命を受けた羽柴秀吉による第二次但馬征伐で但馬国の山名氏が一旦滅ぶと、秀吉配下の宮部継潤が2万石で入城した[5][6]。宮部氏は、城崎を豊岡と改め[4]、城を改築したとされる[1]。このとき城下町も整備され、これが現在の豊岡の町の基礎となった。

その後、天正11年(1583年)、木下助兵衛尉[5][6][注 3]、天正12年(1584年)には尾藤知宣[6]、天正13年(1585年)には2万2千石で明石則実[8][6]文禄4年(1595年)には福原直高[6]と城主が替わった[5]。なお、いずれも代官とみられている[5]

慶長2年(1597年)、杉原長房[6]が2万石で入封した[5][9]豊岡藩三代・重玄に嫡子なくして無子改易となり、一旦廃藩となったため、豊岡城は廃城となった。

寛文8年(1668年)、丹後国田辺から京極高盛が3万5千石[注 4]で入封し[5]、再度豊岡藩が置かれる。城主大名の格式ではなく、山城の維持費もかかるため、山の麓に陣屋豊岡陣屋)が建築され、藩政は陣屋にて行われた。

現在、豊岡城跡一帯は神武山公園として整備されている[4]
交通アクセス

JR
山陰本線京都丹後鉄道豊岡駅」より徒歩15分

脚注[脚注の使い方]^ 古くは「城埼郡」とも記された。『和名抄』では「支乃佐木」と訓じている。
^ 山容から山を亀山といった。神武山の名は、明治5年(1872年)の神武天皇遙拝所設置による[3]
^ 岡田正人編著『織田信長総合事典』では、木下(助左衛門尉)祐久の項で、天正11年(1583年)5月、祐久が小早川隆景に出した書状に関して記述した後、「この時期、但馬国木崎城主」としている[7]
^ 城崎郡、二方郡気多郡養父郡美含郡[5]

出典^ a b c 日本城址研究会 2021, p. 434.
^ 平凡社地方資料センター 1999, p. 918.
^ 平凡社地方資料センター 1999, pp. 918?919.
^ a b c “豊岡城跡 。但馬再発見、但馬検定公式サイト「ザ・たじま」但馬事典”. 公益財団法人 但馬ふるさとづくり協会. 2022年3月21日閲覧。
^ a b c d e f g h i 平凡社地方資料センター 1999, p. 919.
^ a b c d e f 角川日本地名大辞典編纂委員会・竹内 1988, p. 1017.


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