豊山勝男
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豊山勝男

髷を結ってもらう大塚(豊國)を見守る内田(のち豊山。右から3人目。1961年夏場所)
基礎情報
本名内田 勝男
愛称むっつり右門[2]
生年月日 (1937-08-18) 1937年8月18日(86歳)
出身 日本新潟県新発田市
身長189cm
体重137kg
BMI38.35
得意技突っ張り、右四つ、吊り、寄り、上手投げ
成績
最高位東大関
生涯戦歴413勝245敗8休(46場所)
幕内戦歴373勝234敗8休(41場所)
優勝十両優勝1回
殊勲賞3回
敢闘賞4回
データ
初土俵1961年3月場所[1]
入幕1962年1月場所[1]
引退1968年9月場所[1]
引退後第8代日本相撲協会理事長
備考
2020年4月15日現在■テンプレート  ■プロジェクト 相撲

豊山 勝男(ゆたかやま かつお、1937年8月18日 - )は、新潟県新発田市出身で時津風部屋に所属した元大相撲力士。本名は内田 勝男(うちだ かつお)。最高位は東大関。現役時代の体格は189cm、137kg。得意手は突っ張り、右四つ、吊り、寄り、上手投げ[1]。元日本相撲協会理事長(第8代)。
来歴
学生横綱から角界入り 

母子家庭に育ち、苦学しながら文武両道に励んだ。新潟県立新発田商工高等学校定時制在学中は陸上投擲競技)や野球で活躍。一時はプロ野球の有名球団からの誘いもあったが、OBである先生の勧めにより東京農業大学農学部農芸化学科に進学し、相撲部に入部。相撲の経験は無かったが4年次には学生横綱となり、その実績が認められて1961年3月場所に時津風部屋から、異例の幕下10枚目格付出という破格待遇で初土俵を踏んだ。もともと農大相撲部は長年出羽海部屋で稽古し、農大相撲部長で日本学生相撲連盟会長の南礼蔵教授と出羽海親方の関係もあり[3]、当初は出羽海部屋に入門する予定であったが鏡里(当時は年寄・粂川)から熱心な説得を受けて翻意して最終的に時津風部屋を選んだ。内田本人は憧れだった双葉山の弟子になりたかったのが本心だった[4]。そのため本場所土俵に立つと出羽海勢の総攻撃を浴びた[5]

同年9月場所に十両に昇進。11月場所で全勝優勝を果たして2場所で十両を通過、1962年1月場所に新入幕を果たし、本名の内田から「豊山」に改名。この場所では12勝を挙げ、これが初土俵から初の幕内2ケタ勝利を果たすまでの最速記録(当時)となった[注 1]1963年3月場所には幕内所要7場所で大学卒の力士として初めて大関に昇進し、“インテリ大関”と評された。小結昇進迄は負け越し知らず、大関昇進直前の3場所は12勝、12勝、13勝と連続して好成績(何れも殊勲・敢闘の両賞受賞)を挙げ、早い時期に横綱となり「“鵬豊時代”到来か」とも期待された[6]。大関昇進を果たすことが確定的になった1963年1月場所13日目の大鵬戦は、がっぷり左四つで右上手を取り、じっくり構え、気を見て上手投げで崩してからの寄り切り、という流れであった[7]。新入幕から大関昇進までの7場所のうち4度で雷電賞(1962年1月場所、9月場所、11月場所、1963年1月場所)を受賞していて、これは史上最多タイである。

だが、新大関の場所で初日、前頭5枚目金乃花に敗れると7勝8敗と負け越し、13勝を3度、12勝も1度挙げながら大事な一番になると硬くなって取りこぼすなど優勝に恵まれず、「豊山火山はいつ噴火するのか」等と言われたが、遂に横綱昇進は果たせず未完の大器に終わった。右でも左でもがっぷりになれば大鵬に対しても分がよく、両まわしを引いて動きが止まれば幕内最強といわれるほど迫力があった。3代目豊山は「昔の映像を何度も見ています。初代も本当は力ずくでいきたいタイプだと思います。でも突っ張りがダメなら右四つに組み止めて、それでも勝ってきた。参考にさせてもらっています」と2021年9月場所前に語っていた[8]。だが、大関昇進後は“豊山の後ろ投げ”といわれた四つになると反り身になって相手を振り回すように後ろに投げ捨てる技が「大関らしくない」と批判され改めたり(これについては、同門の鶴ヶ嶺が「気にすることはない。あれはあなたの個性なんだから遠慮なくやったらいい」とアドバイスした)、突っ張り得意の佐田の山を突っ張り合いで逆に突き出す程の威力を持っていた強烈な上突っ張りが影を潜めたりするなど取り口が変化し、「迷いと言えば豊山」と言われるほど思い切りのない相撲が目立つようになった。その取り口から、評論家も「あれは、いったい何を考えているんでしょう」と歯ぎしりしていた[9]。更に腰を痛め、大鵬の全盛期とぶつかったこと等もあり優勝は果たせなかった。1964年7月場所には11日目に優勝争いの単独トップに立ちながら12日目大関栃光、14日目横綱栃ノ海に敗れて前頭9枚目富士錦に優勝をさらわれた。また1968年3月場所では13日目に単独トップに立ったが14日目小結麒麟児(のち大麒麟)を寄り立てながらうっちゃりで敗れ、千秋楽関脇清國立合いから押し込まれて完敗、結局前頭8枚目若浪が優勝した。富士錦、若浪とも平幕優勝でかつ横綱・大関との対戦はなかった。

初の大関角番1958年に現行の年6場所制が実施されてから1969年7月場所までは2回連続で負け越して角番、3場所連続負け越しで大関陥落の規定だった)は、引退する前年の1967年、3月場所に5勝10敗と皆勤負け越し、5月場所で僅か1勝の後途中休場した翌7月場所だった。同場所は10勝5敗と、3場所ぶりに勝ち越して角番を脱した。しかし1968年7月場所に7勝8敗と負け越して臨んだ1968年9月場所、5日目迄4勝1敗とまずまずの滑り出しだったが6日目から10連敗して4勝11敗、大関玉乃島に上手一本で吊り出されたり、前頭4枚目二子岳の変化についていけず土俵中央で足をすべらせたりするなど、かつての大器ぶりからは考えられない負け方が目立った。これにより自身大関の地位で通算9回目、かつ合計2回目となる2場所連続の負け越しを喫してしまう[注 2]

その1968年9月場所千秋楽当日の夜、時津風部屋の打ち上げの席で豊山自ら現役引退を発表。記者会見では「未練はあるが自信がない」と語った。なお大関数在位34場所は、当時北葉山の30場所を超える史上1位であり、その後貴ノ花(50場所・現在史上3位)に抜かれるまでの最長記録だった。場所後は年寄錦島を襲名した。
時津風部屋継承 

引退直後に師匠時津風(元横綱双葉山)が死去し、元横綱鏡里立田川親方が直後に時津風部屋を継承した。しかし、四十九日を過ぎる頃、時津風未亡人が「時津風は平素、『豊山に部屋を継がせたい』と言っていた」と証言。遺言状はなかったが、立田川があっさり身を引くという複雑な経緯を経て豊山が年寄・時津風を襲名して、31歳の若さで双葉山相撲道場以来の伝統を誇る名門部屋を継承した(鏡里は再び立田川を襲名し、2年後に他の部屋付き親方と共に立田川部屋を興した)。時津風部屋後援会「双葉山会」の笹山忠夫会長や永田雅一が、部屋の土地を買い取るために、亡き師匠の子飼いの直系弟子で31歳と若い豊山なら資金を出すが、粂川部屋から序二段で移籍した預かり弟子だった45歳の鏡里なら資金を出さない意向だった背景もあった[10]。時津風理事長は親友の玉の海梅吉に「これからの時代は、大学を出て、先を見る能力のある男でないと協会運営はできない。ゆくゆくは豊山を時津風にしたい。」と生前言っていたという[11]

関脇蔵間、小結豊山双津竜等、多くの関取を育てた[12]。部屋の師匠としては「礼に始まり礼に終わる」という12代時津風からの教えを継承し、指導方法が各部屋付き年寄などによって異なると力士が混乱してしまうので、コーチ会議を開いて個人個人にどう教えたらよいか、意見統一して指導するようにしていた[13]


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