座標: .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度42分56秒 東経139度39分44秒 / 北緯35.715430825152964度 東経139.66210241652715度 / 35.715430825152964; 139.66210241652715
中野刑務所。日本政府『写真公報』1960年5月15日号より旧豊多摩刑務所表門豊多摩刑務所(とよたまけいむしょ)は、大正・昭和を通じて東京府豊多摩郡野方村(現:中野区新井3丁目)に存在した刑務所。豊多摩監獄や中野刑務所(なかのけいむしょ)と呼ばれた時代もある[1]。 特に1925年(大正14年)の治安維持法制定以後は思想犯が多数収監された。1933年9月時点では、278人の左翼運動者が収容されている[2]。1941年には治安維持法が改正され、刑期終了後も非転向者を拘禁を可能とする予防拘禁制度が発足。豊多摩刑務所内には拘禁所が設けられ、刑期終了後も拘禁され続ける者もいた[3]。 思想犯の全ては1945年10月の連合国軍最高司令官総司令部の命令により釈放されている[4]。当時、府中刑務所に拘禁されていた共産党員の志賀義雄は、豊多摩刑務所には「蝮」と呼ばれる監視部長がいたことを語っている[5]。 四万坪に及ぶ跡地は現在、平和の森公園および東京都下水道局中野水再生センターとなっている。研修所敷地内に監獄の表門が保存されており、2021年に旧豊多摩監獄表門として中野区有形文化財となった。
概要
沿革
1910年(明治43年)3月 - 市ヶ谷監獄が手狭になったため起工(設計:後藤慶二)
1915年(大正4年)5月 - 竣工
1916年(大正5年) - 豊多摩監獄と改称
1921年(大正10年) - 豊多摩刑務所(英訳 Toyotama Prison)と改称
1923年(大正12年)9月 - 関東大震災により獄舎が倒壊
1931年(昭和6年) - 復旧工事完了
1941年(昭和16年)5月 - 拘禁所が設置。初代所長は東京控訴院検事であった中村義郎
1945年(昭和20年)5月 - 東京大空襲により全焼、囚人は宮城刑務所へ送致
1946年(昭和21年)3月 - GHQ接収、米陸軍刑務所(U.S. Eighth Army Stockade)として使用。接収の間、埼玉県浦和市の前橋刑務所浦和刑務支所跡の刑務所に「豊多摩刑務所」の名が冠されていた
1956年(昭和31年)9月25日 - 米陸軍刑務所閉鎖、接収解除・返還
1957年(昭和32年)7月1日 - 中野刑務所(英訳 Nakano Prison)と改称。同時に、埼玉県浦和市の豊多摩刑務所は浦和刑務所と改称
1961年(昭和36年)1月21日 - 刑務官が撲殺され2人の受刑者が脱獄。翌22日、2人とも逮捕された[6]。
1983年(昭和58年)3月 - 閉鎖
著名な収監者
大杉栄 : 1919(大正8)年12月 - 1920(大正9)年3月[7]
荒畑寒村 : 1926(大正15)年3月 - 同年5月[7]
亀井勝一郎 : 1928(昭和3)年4月 - 1930(昭和5)年春[7]