豊地城
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兵庫県
豊地城の石標
別名拾市城、都市城、依藤城、依藤館、東条城
城郭構造平城、方形館
天守構造不明(が建っていた可能性が指摘)
築城主不明
築城年南北朝時代
主な改修者別所重宗
主な城主金谷経氏、依藤氏、別所重宗など
廃城年天正8年(1580年
遺構土塁など
指定文化財なし
再建造物なし
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度52分54.302秒 東経135度0分53.436秒 / 北緯34.88175056度 東経135.01484333度 / 34.88175056; 135.01484333
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豊地城(といちじょう)は、兵庫県小野市中谷町にあった日本の城平城)。小野市の北東部にあり、加東市に隣接している位置に中谷町がある。吉田新庄の中央に位置し、東条川沿いに街道があり豊地城は街道筋にあたり、三木城にも抜けることができる。豊地が拾市とも表記されるため、中世初期に十日がたっていた要衝と考えられている。
沿革

南北朝時代に、金谷経氏丹生山城と東条城を拠点に衆徒南朝方の兵や率いて戦った。延元元年/建武3年(1336年)に北朝方に東条城が焼き払われている。「東条城はおそらく豊地城の前身であろう」とされている[1]

赤松満祐が起こした嘉吉の乱の時の城主は不明である。嘉吉の乱の後、赤松氏に代わり播磨守護山名宗全が任じられたが、東播磨の明石郡三木郡加東郡三郡は赤松氏庶流の赤松満政代官として入った。しかし、満政が赤松氏残党と結託し反乱し滅ぼされると、三郡も宗全の支配下に移った。

依藤則忠は後に豊地城の城主となるが、南朝討ち入りに参画し赤松政則を支える武将の1人であった。応仁の乱では東軍に就いた赤松政則が守護に任じられ、応仁の乱後に依藤則忠が豊地城含む東条地域を収めていたと考えられている。

文明15年(1483年)の冬、政則は真弓峠にて山名政豊に大敗した。翌16年(1484年)、浦上則宗京都から播磨に下向し、東条城に浦上氏小寺氏、中村氏、明石氏、依藤氏ら赤松家臣団を集結させ、政則を追放した。国人一揆である。

依藤氏は政則に従い、同年中に山名氏と戦いになったが敗れ、東条城を放棄し摂津神呪寺に逃れた。後に政則と家臣団は和睦し、文明17年(1485年)に政則は播磨に帰国し、依藤氏も同年3月に東条城を奪還した。

その後、東播磨においては別所氏が台頭し、依藤氏と抗争するようになった。
依藤城の戦い

享禄3年(1530年)5月15日、堺公方の重鎮である柳本賢治は別所氏の要請を受けて京を出立、小寺氏、別所氏の軍と合流し「依藤城」を攻城した。

この依藤城がどこの城であったのか、『小野市史』によれば「豊地城もしくは東条町の小沢城が比定される。依藤氏が一ヶ月半もの間柳本勢を引き受けて抗戦したことを考えれば、平地居館である豊地城よりも比高40メートルほどの尾根先端の独立峰上に築かれた小沢城の可能性の方が高いかもしれない」とし、依藤城とは豊地城と小沢城のいずれかが比定され、その中でも小沢城の可能性が高いとしている[2]。一方、「西方2.5kmの小田城、北東2kmの小沢城とともにこれら支城を有効に利用し、一か月半にわたって抗戦することができた」としており、小田城と小沢城との連係した働きによってしのぐことができたとし『小野市史』とは別の見解もある[3]

いずれにしても依藤氏との戦いは一ヶ月半に及んだ。ところが同年6月29日の夜、に酔っていた柳本賢治は殺害されてしまった。この時の様子を『二水記』によると、殺害したのは大和山伏の「浄春」坊と記している。浄春は夜陰に乗じて賢治の陣所に忍び入り賢治を刺殺、陣所から脱出に成功した。これを命じたのは浦上村宗被官中村助三郎であった。総大将を失った柳本軍に依藤軍が襲いかかり百余人が討たれ、柳本軍は退却した。この時の功労者である浄春、中村助三郎に細川高国と村宗[4]から感状が与えられている。三木城の本丸井戸

村宗は依藤城の戦いの最中に小寺氏、別所氏、在田氏の居城を攻め、それに伴って高国も7月6日に備前を出立、高砂に着陣、7月27日に御着城が落城し小寺政隆も戦死、別所就治も敗北し三木城から逃走した。「中嶋の戦い」も参照


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