谷関(こくかん、繁: 谷關、英: Kukuan, Guguan〈クークアン[4]、グーグアン〉)は、台湾の台中市和平区にある観光地であり、中部横貫公路(省道台8線)の東勢区の起点より約 35キロメートル (22 mi) (33.8km[5]) の距離に位置する[6]。「谷関」の地名は、山に囲まれた関所のような地形から名付けられた[7]。大甲渓の温泉の湧出により開発され、さらに中部横貫公路の開通により観光事業が急速に発展した[8]。しかし、921大地震や台風7号(ミンドゥル)の災害(72水災)により大甲渓一帯は大きく変貌した。温泉観光産業は多大な損害を受け[9]、湧泉量も減少し[10]、中部横貫公路も崩落によって上谷関より先が寸断されたが、その後、回復が図られている[11]。 谷関は、もともとタイヤル族(繁: 泰雅族)の居住地であり[12]、日本統治時代(1895-1945年)の1907年(明治40年)[13]、地元の原住民によって温泉が発見され、谷関温泉は日本人により明治温泉と呼ばれた[14]。しかし当初、路線の建設が進められていたが、あまりに不便なことから開発されなかった。1917年(大正6年)ごろに初めて警備隊とその家族のための浴場が整備された後[15]、1927年(昭和2年)に公衆浴場が建設され[16]、1928年(昭和3年)に明治温泉公共浴場(温泉場に設置された普通旅館[17])が落成した[15]。谷関は、温泉の呼称から「明治」と名付けられ、標高により上明治(上谷関)、下明治(下谷関)に分けられた。 1937年(昭和12年)には、日本人の山田金治により、谷関で先史時代の石器が発見された。その後、1955年(民国44年)より調査研究が進められ、1995年(民国84年)には、上谷関からも谷関類型の石器が発見された[18]。研究により大甲渓流域の営埔文化
歴史
戦後(中国語版)、国民政府になると、1952年(民国41年)[23]、大甲渓の上谷関に[13]天輪ダム(中国語版)が完成した。そして1956年(民国45年)には、台湾の東と西を結ぶ中部横貫公路の建設が開始され、同年7月7日、起工式が谷関と太魯閣双方でともに行われ[24]、退役軍人らの尽力により台湾初の横貫公路は、1960年5月9日に竣工した[25]。谷関郵局は1958年(民国47年)のうちに設置された[26]。開通後、谷関に多くの観光客が訪れて観光産業が発展し[27]、1981年(民国70年)[28]12月には、台中県政府(現・台中市政府(中国語版))より[29]、谷関は観光地的機能を兼ね備える風景特定区に指定された[16]。一方、1986年(民国75年)10月、谷関観光バス転落事故(中国語版)が大型トラックとの衝突により発生し、42人が死亡する台湾バス事故最大の惨事となった[30][31]。
災害・復旧上谷関(省道台8線37.5km[5])の通行規制地点(2010年)
1999年(民国88年)9月21日、921大地震の発生により、省道台8線沿線は多くが破壊され[16]、死者・負傷者のほか、谷関には観光客1万人余りが孤立し、救助作業が進められた[32]。その後、2000年(民国89年)1月18日に一時復旧したが、交通部公路総局の谷関工務課(繁: 谷關工務段)の管轄する起点から 112キロメートル (70 mi) の区間のうち、地質的に脆弱な上谷関 35キロメートル (22 mi) の地点より徳基 62キロメートル (39 mi) までを閉鎖して修復された。しかし、2004年(民国93年)7月15日の開通を前に[6]、同年7月2日、台風7号(繁: 蒲公英、ミンドゥル)により再び崩壊し[33]、この水害(72水災)により、谷関の観光産業はさらに打撃を受けた[9][34]。大甲渓の土砂の堆積により[35]、同年8月には台風17号(繁: 艾利、アイレー)の影響に伴う退避を余儀なくされ[36][37]、その後も2005年(民国94年)7月には、台風5号(繁: 海棠、ハイタン)の豪雨により谷関の交通が遮断され[38]、2008年(民国97年)9月にも台風13号(繁: 辛樂克、シンラコウ)によって幹線道路に架かる篤銘橋が破壊された[39]。2010年に移設された篤銘橋
2009年(民国98年)1月より損壊した篤銘橋の移設工事が開始され、翌2010年(民国99年)7月、約 150メートル (490 ft) 上流に新たな篤銘橋が開通した[40]。