たに りょういち
谷 良一
生誕 (1956-09-19) 1956年9月19日(67歳)
日本 滋賀県
別名谷河良一(小説家ネーム)
出身校京都大学文学部卒業
職業作家
活動期間1981年 - 現在
団体元株式会社よしもとクリエイティブエージェンシー(専務取締役)
元株式会社よしもとファンダンゴ(代表取締役社長)
元株式会社よしもとデベロップメンツ(代表取締役社長)
著名な実績創設者『M-1グランプリ』
著書『M-1はじめました。』
テレビ番組『M-1グランプリ』
『恋のから騒ぎ』
『ナンバ壱番館』
『R-1ぐらんぷり』
肩書き元テレビプロデューサー
芸能マネージャー
公式サイト谷良一の日常生活の冒険
映像外部リンク
PIVOT Official YouTube Channel
【島田紳助、賞金1,000万・審査員へのこだわり】地上波では語れない、M-1誕生秘話/松本人志、審査員決定の裏側/日テレ・フジ・TBS・テレ東に断られた全国放送/芸歴は10年に戻すべき - YouTube
谷 良一(たに りょういち、1956年〈昭和31年〉9月19日 - ) は、日本の作家、『M-1グランプリ』創設者、『漫才プロジェクト』仕掛け人。元株式会社よしもとクリエイティブエージェンシー専務取締役、元株式会社よしもとファンダンゴ代表取締役社長、元株式会社よしもとデベロップメンツ代表取締役社長[1]。元吉本興業ホールディングス取締役。小説執筆のペンネームは谷河良一。 滋賀県出身。滋賀県立彦根東高等学校[2]、京都大学文学部国語国文科を卒業後、1981年(昭和56年)に吉本興業に入社[3]。初めての仕事は横山やすし・西川きよしのサブマネージャーだった[4]。 その後、横山やすし・西川きよし、ザ・ぼんち、今いくよくるよ、西川のりお・上方よしお、太平サブロー・シロー、ハイヒール、オール阪神・巨人、笑福亭仁鶴、月亭八方、林家小染、間寛平など数多くのタレントのマネージャーを歴任[5]。 なんばグランド花月などの劇場プロデューサー・支配人、テレビ番組プロデューサーを歴任。東京に異動し、渋谷公園通り劇場支配人[5]。大阪に戻り、制作部に復任。映像メディアチームCPに就任[6]。 2001年(平成13年)春、[7]漫才を盛り上げる『漫才プロジェクト』を社内1人でスタートする。その途中で島田紳助から「若手漫才師を対象にした漫才コンクール」の案を貰い、2人で新しい漫才の才能を発掘する枠組を企画。当時オートバックスセブンの代表取締役であった住野公一との会談で谷はスポンサー契約を勝ち取り、『M-1グランプリ』を開催に導いた[8]。以降もM-1グランプリの企画・制作に携わり、一旦終了となった2010年までプロデューサーを務めた。[9] 2003年(平成15年)高校生の漫才チャンピオンを決める「M-1甲子園」を始める。現在「ハイスクールマンザイ」という名前に変わって続く[10]。 2008年(平成20年)10月より、株式会社よしもとファンダンゴ代表取締役社長。その後、株式会社よしもとクリエイティブエージェンシー専務取締役、株式会社よしもとデベロップメンツ代表取締役社長を歴任[3]。 2013年(平成25年)中国・四国ブロック代表「住みます専務」に就任。着任にあたり松山市長を表敬訪問[11]。 2014年(平成26年)大阪文学学校・小説クラスに入学、小説家修業の勉強を始める(2023年現在まで一度も休学せずに通学中、文校学生委員会委員長を務める)[12]。 自身のブログでは2015年、M-1グランプリ復活後についてもふれている[13]。 2016年(平成28年)吉本興業ホールディングス取締役就任[3]。 2020年(令和2年)吉本興業ホールディングス取締役退任後、奈良県あやめ池美術研究所で絵の修業を始めるかたわら、奈良市の公益社団法人ソーシャル・サイエンス・ラボで奈良の観光客誘致に携わる[3]。 2023年(令和5年)7月31日、谷河良一名義で雑誌に小説『湖上の月』を寄稿。小説家デビュー[12]。 2023年(令和5年)11月15日、東洋経済新報社から初めての著書『M-1はじめました。』を出版。漫才が廃れていた2000年初頭、1人の吉本社員・谷良一が立ち上がりM-1グランプリを立ち上げるまでの泥臭いドラマを描いた成功物語。芸能界を引退した島田紳助が帯に言葉を寄せたことでも話題となった[14]。発売前から注目を浴びて重版が決定した[3]。 現在、小説家として活動。地元の奈良で趣味の油絵などを嗜みつつ悠々自適な暮らしを送る[15]。
経歴
人物
子供の頃から漫才が好きな少年だった。父に連れられて京都花月に通った。「夢路いとし・喜味こいし」「横山やすし・西川きよし」「オール阪神・巨人」のような正統派といわれる“しゃべくり漫才”を好む[16]。
京都大学を出て吉本興業に就職することを家族に話すと反対された。唯一、父は「一部上場だから」という理由で納得した。銀行員の叔父は「無借金の健全経営企業」だと擁護してくれた[17]。
M-1グランプリ功績・逸話
「M-1」の名付けの親。島田紳助が「今までにあったようなもんやない。漫才のガチンコ勝負!K-1のようなガチンコの大会」と言うや否や谷が大会名を紳助に提案した[18]。
大会ルールの大元は10年前に担当したテレビ番組「よしもとカラオケ選手権」。