谷本富
[Wikipedia|▼Menu]

谷本 富
人物情報
別名梨庵(
生誕 (1867-11-12) 1867年11月12日慶応3年10月17日
讃岐国香川郡高松(現・香川県高松市
死没 (1946-02-01) 1946年2月1日(78歳没)
国籍 日本
出身校帝国大学文科大学(選科・特約生教育学科)
学問
研究分野教育学
研究機関高等師範学校東京高等師範学校
京都帝国大学文科大学
学位文学博士(日本・1905年)
主要な作品『科学的教育学講義』(1895年)
『将来の教育学』(1898年)
『系統的新教育学綱要』(1907年)
テンプレートを表示

谷本 富(たにもと とめり、1867年11月12日慶応3年10月17日) - 1946年昭和21年)2月1日)は明治時代から昭和初期にかけての日本教育学者は梨庵。

はじめヘルバルト主義教育を紹介、その後国家主義教育、新教育、実験主義教育などを提唱した。
来歴

讃岐国高松生まれ。松山公立病院附属医学所、同人社を卒業後、帝国大学文科大学選科生となり、哲学全科を修了。さらに特約生教育学科で御雇教師ハウスクネヒトからヘルバルト教育学を学んだ。

1890年(明治23年)に山口高等中学校教授となり、1894年(明治27年)には日高真実の後任として高等師範学校教授となった。同校時代には1898年に『将来の教育学』を著している。1900年(明治33年)から3年間ヨーロッパに留学し、帰国後、京都帝国大学理工科大学講師に就任。1906年刊の『新教育学講義』は留学の成果であり、それまでのヘルバルト一辺倒から転じて新教育を強く提唱した。1905年(明治38年)に文学博士、翌年に京都帝国大学文科大学教授となり、新設の教育学教授法講座を担当。1910年には再び海外に留学した。しかし1912年大正元年)9月、大阪毎日新聞紙上で乃木希典殉死を「その古武士的質祖、純直な性格はいかにも立派なるんも拘わらず、なんとなくわざと飾れるように思われて、心ひそかにこれを快しとしなかった」[1]などと批判したことから強い非難を浴びる[2][3]。翌1913年、兼任していた大谷大学神戸高等商業学校を辞任[4]。さらに同年8月、京都帝国大学総長澤柳政太郎により谷本を含む7教授が辞表提出を強要され、辞職に追い込まれた(澤柳事件の発端)。谷本ら7教授は、京大においてさほどの支持を受けておらず、のちに京大の教授陣もこの退職を是非なしと認めている[5]

その後は著述家、論客として活動し、龍谷大学講師、大阪毎日新聞社顧問も務めている。
栄典

1891年明治24年)12月21日 - 従七位[6]

1895年(明治28年)6月21日 - 正七位[7]

1897年(明治30年)10月11日 - 従六位[8]

1899年(明治32年)12月20日 - 正六位[9]

1903年(明治36年)3月30日 - 従五位[10]

1907年(明治40年)6月30日 - 勲六等瑞宝章[11]

1909年(明治42年)10月20日 - 正五位[12]

1910年(明治43年)6月24日 - 勲五等瑞宝章[13]

1911年(明治44年)12月26日 - 勲四等瑞宝章[14]

著作

『谷本富氏大講演集
大日本雄弁会編、大日本雄弁会、1927年2月


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:34 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef