谷川雁
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谷川 雁
誕生谷川 巌
1923年12月25日
日本熊本県水俣市
死没 (1995-02-02) 1995年2月2日(71歳没)
日本神奈川県川崎市
職業詩人・評論家
最終学歴東京帝国大学文学部卒業
ウィキポータル 文学
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谷川 雁(たにがわ がん、本名:谷川 巌(たにがわ いわお)[1]1923年12月25日 - 1995年2月2日[1])は、日本の詩人評論家サークル活動家、教育運動家。社会主義的なリアリズムを基調とにした詩人として知られ、評論集「原点が存在する」「工作者宣言」は1960年代新左翼陣営に思想的な影響を与えた[1]
経歴

熊本県水俣市[1]開業医の、六人兄妹の次男として生まれる。兄は民俗学者の谷川健一[1]、弟に東洋史学者の谷川道雄日本エディタースクール創設者の吉田公彦。旧制熊本中学第五高等学校を経て、1945年東京帝国大学文学部社会学科を卒業[2]。従軍する。

戦後、西日本新聞社に勤務。同人誌「九州詩人[1]」「母音」に詩を発表し、安西均那珂太郎などと交遊。1947年日本共産党に入党すると大西巨人井上光晴らと活動し、新聞社を解雇される。1947年、西日本新聞労組書記長に就任。

1954年、第一詩集「大地の商人」を刊行[1]1956年、第二詩集「天山[1]」、1960年「定本谷川雁詩集」を刊行、その“あとがき”で「私の中の『瞬間の王』は死んだ」として、以後詩作しないことを宣言する。

1958年、「母音」で知り合った森崎和江と共に、福岡県中間市に移住し、上野英信夫婦とも隣家暮らしをする[3]上野英信森崎和江石牟礼道子らと雑誌「サークル村」を創刊し(1961年、休刊)、炭鉱労働者の間で活動する。

評論集「原点が存在する」「工作者宣言」などを発表。アジア的土俗的な地域性に根ざした特異なナショナリズム論と、「大衆に向かっては断乎たる知識人であり、知識人に対しては鋭い大衆である」という工作者の思想によって注目を受ける。

1960年安保闘争を機に共産党を離党し、吉本隆明らと「六月行動委員会」を組織して全学連主流派の行動を支援する一方、地元の大正炭鉱を巡る争議では「大正行動隊」を組織して活動した。「多数決を否定する」「連帯を求めて孤立を恐れず(“力及ばずして倒れることを辞さないが、力尽くさずして挫けることを拒否する”と続く)」といった、個人の自立性、主体性を重視し既成組織による統制を乗り越えようとした組織原理と行動原理は、その後の全共闘運動にも大きな影響を与えている。

1961年吉本隆明村上一郎と思想・文学・運動の雑誌「試行」を創刊[1]したが、8号を最後に脱退(「試行」はその後、吉本の単独編集となる)。評論集「戦闘への招待」を発表。1962年に、松田政男山口健二川仁宏らが自立学校を企画し、吉本隆明埴谷雄高黒田寛一らとともに講師となった。1963年、評論集「影の越境をめぐって」を刊行。大正鉱業退職者同盟を組織して退職金闘争を展開。1964年12月の大正鉱業の閉山時に、森崎和江と対立して離別する[4]

1965年、闘争の終息とともに執筆を含めた一切の活動を停止。山口健二を介して知り合っていた榊原陽らの、語学教育を展開する「株式会社テック」(TEC。東京イングリッシュセンター)の重役に招かれて上京し、テックが新事業として始めようとしていた、当時としてはまだ珍しかった児童向けに語学教育を行う「ラボ教育センター」創設に参加した[5]。以後、「らくだ・こぶに」の筆名で、同センターの『ことばの宇宙』などに執筆する。また、ラボ活動の素材となる「ラボ・ライブラリー」(英語・日本語等で演じられた録音素材つきの絵本)に、オリジナル童話、世界の童話や日本神話を翻案した作品を発表。それらの作品のために間宮芳生中西夏之高松次郎赤瀬川原平ら当時の前衛芸術家が作曲し、絵を描いた[6]。1971年、ラボは長野県黒姫山麓に「ラボランド」を開設。1978年黒姫山 (長野県)のふもと(上水内郡信濃町[1])へ移住。

1979年4月、ラボ・ライブラリー『国生み』の製作をめぐり、ラボ教育センター内の榊原陽派、組合派と対立して、谷川専務理事の解任案が取締役会で議決される[7]。谷川は退社するにあたり、製作担当をした「ラボ・ライブラリー」の著作権を争ったが、認められず[8]1980年、「ラボ教育センター」を退社。

1981年定村忠士らと「十代の会」を主宰[1]。1985年から3年間ほど、月刊雑誌『十代』を刊行した[9]1982年には「ものがたり文化の会」を発足させる。宮沢賢治の作品[1]を中心に児童文化活動に取り組むなどの活動を再開した。

1989年、作曲家新実徳英と共作で合唱曲「白いうた 青いうた」の制作を開始。これは「曲先」「填詞」と言われる、曲が先で詩を後から当てはめるという合唱曲では珍しい手法で作られた。このことにより新実徳英は自由に世界中のスタイルの曲を書くことができ、それらの様々な曲に谷川雁が見事に対応する詩をあてることで他に類例をみない合唱曲集が生まれ、その後鎌倉や鹿児島で毎年この合唱曲集だけを歌うフェスティバルが開かれるほどに愛されることとなった[10]

1995年2月2日午後5時6分、肺癌のため神奈川県川崎市の病院で逝去、71歳[1]。前年秋より入院していた[1]。「白いうた?」は100曲を目指していたが、雁の死により53曲で中止となった。戒名は流水院釈磐石居士[11]


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