谷川 俊太郎
(たにかわ しゅんたろう)
谷川俊太郎(2015年)
誕生 (1931-12-15) 1931年12月15日(92歳)
日本 東京府豊多摩郡杉並町
職業詩人、翻訳家、絵本作家、脚本家
言語日本語
国籍 日本
最終学歴東京都立豊多摩高等学校
活動期間1948年 -
ジャンル詩、翻訳、絵本、評論、作詞、脚本
代表作『二十億光年の孤独』(1952年)
『世間知ラズ』(1993年)
主な受賞歴第4回日本レコード大賞作詞賞(1962年)
日本翻訳文化賞(1975年)
読売文学賞(1983年)
現代詩花椿賞(1985年)
野間児童文芸賞(1988年)
小学館文学賞(1988年)
丸山豊記念現代詩賞(1992年)
萩原朔太郎賞(1993年)
朝日賞(1996年)
日本文化デザイン大賞(2005年)
毎日芸術賞(2006年)
詩歌文学館賞(2008年)
鮎川信夫賞(2010年)
中坤国際詩歌賞(2011年)
三好達治賞(2016年)
国際交流基金賞(2019年)
ストルガ詩の夕べ金冠賞(2022年)
デビュー作『二十億光年の孤独』(1952年)
配偶者岸田衿子(1954年 - 1955年)
大久保知子(1957年 - 1989年)
佐野洋子(1990年 - 1996年)
子供谷川賢作
親族父・谷川徹三(哲学者)
従弟・庭瀬健太郎(愛知県常滑市長)
孫・谷川夢佳(スタイリスト)
公式サイト ⇒谷川俊太郎.com
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谷川 俊太郎(たにかわ しゅんたろう、1931年(昭和6年)12月15日 - )は、日本の詩人、翻訳家、絵本作家、脚本家。
東京府(現:東京都)出身。東京都立豊多摩高等学校[注釈 1]を卒業。 哲学者で法政大学総長の谷川徹三を父、衆議院議員の長田桃蔵の娘である多喜子を母として[1]、東京府豊多摩郡杉並町(現:東京都杉並区)に生まれ育つ。元愛知県常滑市長の庭瀬健太郎は従弟である[2][3]。 1938年、東京市立杉並第二尋常小学校
人物
1944年、東京都立豊多摩中学校
に入学。1945年5月に山の手空襲を体験した。またこの年、京都府久世郡淀町に疎開。京都府立桃山中学校に転学。
1946年、杉並の自宅に戻り、豊多摩中学校に復学。
1950年には、父の知人であった三好達治の紹介によって『文学界』に「ネロ他五編」が掲載される。1952年には処女詩集『二十億光年の孤独』を刊行する。まもなく、詩作と並行して歌の作詞、脚本やエッセイの執筆、評論活動などを行うようになる。また、石原慎太郎、江藤淳、大江健三郎、寺山修司、浅利慶太、永六輔、黛敏郎、福田善之ら若手文化人らと「若い日本の会」を結成し、60年安保に反対した。
1962年に「月火水木金土日のうた」で第4回日本レコード大賞作詞賞を受賞した。
1964年からは映画製作(記録映画「東京オリンピック」の製作に脚本家として)に、1965年からは絵本の世界に進出した。映画においては、自ら“市川崑監督の弟子”と称して、もっぱら同監督の作品の脚本を手がけた。1973年の『股旅』などは特に評価が高い。1978年の『火の鳥』も、映画自体は遊びが過ぎて酷評されたものの、脚本(キネマ旬報に掲載)は、手塚治虫による原作に忠実で詩人としての本領を発揮した雄渾な作品である。
1967年には初の訳書となる『あしながおじさん』(ジーン・ウェブスター)を出版。翻訳の分野では『スイミー』(レオ・レオニ)、『ピーナッツ』、『マザー・グースのうた』など2007年現在までにおよそ50種類の著作を手がけている。
1968年に母校である都立豊多摩高等学校へ"あなた"を創作。以降、豊多摩高校では卒業式で卒業生がこの詩を朗読するのが伝統となっている。
2007年現在までに出版した詩集・詩選集は80冊以上に及ぶ。子どもが読んで楽しめるようなもの(『わらべうた』『ことばあそびうた』など)から、実験的なもの(『定義』『コカコーラ・レッスン』など)まで幅広い作風を特徴としている。谷川の詩は英語、フランス語、ドイツ語、スロバキア語、デンマーク語、中国語、モンゴル語などに訳されており、世界中に読者を持っている。
2014年には息子と孫との共著「どこかの森のアリス」を出版。
2017年、個人のファンにより札幌市に谷川公認の「俊カフェ」がオープン。『詩人なんて呼ばれて』(尾崎真理子著/新潮社)年表に記載されたほか、「谷川俊太郎展」(於:東京オペラシティアートギャラリー、2018年)の年表最後にも記載される。
エピソード
詩人を生業とすることを自負し[4]、日本ビジュアル著作権協会の会員として、著作権擁護に熱心に取り組んでいる。2007年には希学園とSAPIXに対して、受験教材に勝手に作品を掲載され著作権を侵害されたと主張して、なだいなだ他25名とともに東京地裁に出版差止め訴訟を起こした[5]。一方で、「詩というのは書いた以上他人のもの」と言い、自分の詩を起点に詩を連ねていくプロジェクトも喜んでおり、詩を本来は金銭とは馴染まずしかし必要最低限の著作権によって詩人としてお金を稼いでいきたいと考えているようである[6]。