たにざき じゅうろう
谷崎 十郎
本名谷内 義清(たにうち よしきよ)
別名義谷崎 千代麿(たにざき ちよまろ)
谷崎 千代丸(たにざき ちよまる)
生年月日 (1896-09-03) 1896年9月3日
没年月日 (1977-07-06) 1977年7月6日(80歳没)
出生地 アメリカ合衆国 ワシントン州オリンピア
死没地 日本
国籍 日本
職業俳優
ジャンルサイレント映画、剣戟映画
活動期間1925年 - 1934年
活動内容1925年 小笠原プロダクション入社
1925年 日活大将軍撮影所移籍
1928年 谷崎十郎プロダクション
谷崎 十郎(たにざき じゅうろう、1896年9月3日 - 1977年7月6日[1][2])は、日本の俳優である。初期芸名は谷崎 千代麿(-ちよまろ)、谷崎 千代丸(-ちよまる)、本名は谷内 義清(たにうち よしきよ)である[1]。 1896年(明治29年)9月3日、アメリカ合衆国ワシントン州オリンピアに「谷内義清」として生まれる[1]。 6歳を迎える1902年(明治35年)、事業家として成功した父とともに日本に帰国した[1]。帰国以降の教育は学習院で受けた[1]。東京薬学校(現在の東京薬科大学)に進んだが1917年(大正6年)には中途退学し、父が設立した自動車販売会社を経営する[1]。 1925年(大正14年)、京都の小笠原プロダクションに入社、同年、同社の経営者・小笠原明峰が「三善英芳」名義で監督した『男を磨け
来歴
1928年(昭和3年)、スタープロダクションである谷崎十郎プロダクションを設立、自らを主演に映画製作を行うが[3]、同年中にマキノ・プロダクションに入社[1][2]、マキノ正博の『浪人街 第一話 美しき獲物』に南光明、根岸東一郎、河津清三郎とともに主演、同作は同年のキネマ旬報ベストテン1位を獲得した。1931年(昭和6年)、マキノ・プロダクションが解散になり、市川右太衛門プロダクションに入社した[1][2]。主演作[2]のほか、市川右太衛門、大江美智子と多く共演した。
37歳を迎える1933年(昭和8年)秋、下村健二監督の『大久保彦左衛門』に出演したのを最後に引退した[1]。同作は翌1934年(昭和9年)2月1日に公開された[3]。その後は悠々自適の生活を送ったという[1]。
1977年(昭和52年)7月6日、死去した[1][2]。満80歳没。 孫に女優の真山知子がおり、その娘で写真家の蜷川実花は曾孫に当たる。 谷崎のデビュー当時は、阪東妻三郎が大人気だった。谷崎は「阪妻そっくりのスタアをつくろう」と売り出されたチャンバラ役者の一人だった[4]。
人物・エピソード
おもなフィルモグラフィ谷崎十郎(右)
『男を磨け
『剣は怒る』 : 監督辻吉郎、1925年
『荒木又右衛門』 : 監督池田富保、1925年
『実録忠臣蔵 天の巻 地の巻 人の巻』 : 監督池田富保、1926年
『鳴門秘帖』全七篇 : 監督辻吉郎、1926年 - 1927年
『修羅悪鬼』 : 監督松屋春翠、1928年
『怪盗竜神組 電光石火篇』 : 監督松屋春翠、1928年
『漂泊の剣士』 : 監督下村健二、1928年
『浪人街 第一話 美しき獲物』 : 監督マキノ正博、1928年
『大化新政』 : 総監督マキノ省三、監督補助二川文太郎・稲葉蛟児・金森万象・マキノ正博・松田定次・中島宝三・押本七之助・吉野二郎、1929年
『首の座』 : 監督マキノ正博、1929年
『須磨の仇浪』 : 監督三上良二、1930年
『真田十勇士』 : 監督金森万象・稲葉蛟児・滝沢英輔・三上良二・久保為義、1931年
『三日月次郎吉』 : 監督吉野二郎、1931年
『裏切った秋太郎』 : 監督白井戦太郎、1931年
『江戸へ帰った退屈男』 : 監督志波西果、1931年
『大久保彦左衛門』 : 監督下村健二、1934年
註^ a b c d e f g h i j k l m n 『芸能人物事典 明治大正昭和』、日外アソシエーツ、1998年、「谷崎十郎」の項。