谷山塩屋町
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谷山塩屋町
町丁(廃止)
潮見橋
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯31度30分51秒 東経130度31分04秒 / 北緯31.514222度 東経130.517889度 / 31.514222; 130.517889座標: 北緯31度30分51秒 東経130度31分04秒 / 北緯31.514222度 東経130.517889度 / 31.514222; 130.517889
日本
都道府県 鹿児島県
市町村 鹿児島市
地域谷山地域
地区谷山地区

人口情報(2010年(平成22年)2月末現在)
 人口286 人
 世帯数153 世帯
設置日1889年(明治22年)4月1日
廃止日2013年(平成25年)11月11日
郵便番号891-0121
市外局番099
ナンバープレート鹿児島
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ウィキポータル 鹿児島県
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谷山塩屋町(たにやましおやちょう)は、かつて鹿児島県鹿児島市にあった[3][4]。旧薩摩国谿山郡谷山郷塩屋村、谿山郡谷山村大字塩屋、鹿児島郡谷山町大字塩屋、谷山市塩屋町。郵便番号は891-0121。人口は286人、世帯数は153世帯(2010年2月末現在)[5]

塩屋という地名は江戸時代より見え[3]1967年(昭和42年)の谷山市と鹿児島市の対等合併により鹿児島市となった際に塩屋町から「谷山塩屋町」に改称した[3]2013年(平成25年)11月11日に和田地区において住居表示が実施されるのに伴い町域の再編が実施され、和田町・谷山塩屋町の全域を以て和田三丁目が設置され廃止された[4]
地理

鹿児島市の南部、和田川下流域に位置していた。2013年(平成25年)時点の町域の北方及び西方には谷山中央、南方には和田、東方には卸本町がそれぞれ隣接していた。

かつては鹿児島湾の海岸に沿って南北に長い町域であり、塩の専売制度導入までは塩田が広がり製塩業が盛んであった[6]1971年(昭和46年)から2013年(平成25年)まで行われた町域の再編に伴って、徐々に町域が減少していき、2013年(平成25年)11月11日に和田三丁目の一部となり廃止された。

1970年(昭和45年)時点の町域は2021年(令和3年)現在の卸本町(一部)・東谷山一丁目(一部)・小松原一丁目(一部)・小松原二丁目(全域)・谷山中央二丁目(一部)・谷山中央三丁目(一部)・谷山中央四丁目(一部)・和田三丁目(一部)にあたる。
河川

和田川

町名の由来

「塩屋」という町名は以前、付近に塩田があったことに由来する[3]
歴史
塩屋村の成立と近世

塩屋は江戸時代より見える地名であり、薩摩国谿山郡谷山郷(外城)のうちであった[3]村高は「三州御治世要覧」では312石余[7]、「旧高旧領取調帳」では336石余であった[3]寛文4年の「郡村高辻帳」には塩屋村の記載がなく、福本村[注釈 1]に含まれていたとされる[7]。上塩屋・中塩屋・東塩屋・西塩屋・和田塩屋の5地区に分かれていた[7]

塩屋の浦浜には商家があり商売が営まれており、谷山市史によれば油・雑貨店、海産物商、米穀・味噌醤油業が店を構えていたとされる[8]。また塩屋村には山川路(現在の国道226号の前身)が通っていた[9]

万治元年(1658年)に薩摩藩島津光久の命により和田村沖の開発が行われた(和田干拓[10]弘化3年(1846年)に塩屋村(現在のラ・サール中学校・高等学校付近)において総指揮役の成田正右衛門の指揮の下薩摩藩の洋式砲術の演習が行われた[11]島津斉彬がこの砲術演習を視察し、成田に対して質問書を斉彬が下したとされる[12]安政5年(1853年)には島津斉彬によって中塩屋に硝石場を建設されたとされる[13]

1882年(明治15年)には塩屋村に浄土真宗本願寺派の説教所が設置され、1888年(明治21年)に妙行寺[注釈 2]を公称した[7][15]
町村制施行から廃止まで

1889年(明治22年)に町村制が施行されたのに伴い、それまでの谷山郷にあたる下福元村、上福元村、松崎町、塩屋村、和田村、平川村、中村、山田村、五ケ別府村の区域より鹿児島郡谷山村が成立した。これに伴ってそれまでの塩屋村は谷山村の大字「塩屋」となった[3]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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