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出典検索?: "谷佳知"
谷 佳知東芝硬式野球部 エグゼクティブ・アドバイザー
オリックス時代
(2015年5月5日、神戸第二サブ球場にて)
基本情報
国籍 日本
出身地大阪府東大阪市
生年月日 (1973-02-09) 1973年2月9日(51歳)
身長
体重173 cm
77 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション外野手、一塁手
プロ入り1996年 ドラフト2位(逆指名)
初出場1997年5月11日
最終出場2015年10月3日(引退試合)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
尽誠学園高等学校
大阪商業大学
三菱自動車岡崎
オリックス・ブルーウェーブ
オリックス・バファローズ (1997 - 2006)
読売ジャイアンツ (2007 - 2013)
オリックス・バファローズ (2014 - 2015)
指導歴
東芝
国際大会
代表チーム 日本
五輪1996年、2004年
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谷 佳知(たに よしとも、1973年2月9日 - )は、大阪府東大阪市出身の元プロ野球選手(外野手、内野手)。右投右打。
日本プロ野球におけるシーズン最多二塁打記録(52本)の保持者。アトランタオリンピック野球の銀メダリスト、アテネオリンピック野球の銅メダリスト。妻は谷亮子(元柔道選手)。 高校は香川県の尽誠学園高等学校に野球留学。2年生時に一学年上の宮地克彦とともに第71回全国高等学校野球選手権大会に出場し、1番右翼手として本塁打を放つなどチームのベスト4進出に貢献した[1](また、2学年先輩に佐伯貴弘がおり、佐伯とは大学でもチームメイトとなった)。 卒業後は大阪商業大学に進学。関西六大学リーグ通算83試合出場、282打数104安打、打率.369、7本塁打、44打点。3年秋に打率.565、26安打のリーグ新記録を樹立し関西六大学リーグ三冠王になり最優秀選手に選ばれた。ベストナイン3度受賞。三菱自動車岡崎では1995年の第66回都市対抗野球大会で若獅子賞を受賞、同年のオリンピック予選でMVPを獲得。翌1996年のアトランタオリンピック野球日本代表に選ばれ銀メダルを獲得した。 同年のドラフト会議でオリックス・ブルーウェーブから2位指名を受けて入団。背番号は10に決まった。 1997年は、開幕一軍入りこそ果たせなかったもののシーズン序盤に登録され、5月11日の対近鉄バファローズ戦で8番・中堅手としてスタメン起用されプロ入り初出場を果たす。5月25日の対千葉ロッテマリーンズ戦でプロ初安打を、8月1日の対近鉄戦でプロ初本塁打を記録した。規定打席到達はならなかったが、ルーキーながらシーズン101試合に出場した。 1998年は132試合に出場し、規定打席にも到達。打率.284、10本塁打を記録し、プロ2年目ながら中堅手のレギュラーを勝ち取った。 1999年は134試合に出場、リーグ5位となる打率.291を記録するなどし、初のベストナインにも選出された。また、前年1盗塁ながら同年は24盗塁を記録。盗塁死はわずか2で高い成功率を収めた。この年は一塁手として出場することも多かった。同年4月10日の対西武ライオンズ戦(ナゴヤドーム)では3-3の同点の9回一死満塁の打席で西口文也からサヨナラ安打[2]、5月11日の対近鉄戦(グリーンスタジアム神戸)では1点を追う9回二死一塁の打席でカルロス・バルデスから自身初のサヨナラ本塁打である逆転サヨナラ2点本塁打[3]の2度のサヨナラ打を放った。 2000年は134試合に出場、打率、本塁打ともに前年より成績を落とすが、自己最多の73打点を記録。前年より成功率は下げたが23盗塁を記録した。前年に引き続き、度々一塁手として起用された。 2001年は136試合に出場、プロ入り初の打率3割(.325、リーグ5位)を記録し、打点、本塁打、盗塁、いずれも自己最高を記録した。また、シーズンを通して52本の二塁打を放ち、日本記録を樹立[4]。初のゴールデングラブ賞を受賞した。 2002年は138試合に出場、1998年からのレギュラー定着後以降最少の5本塁打に終わったが、前年を上回る打率.326(リーグ4位)を記録。
経歴
プロ入り前
オリックス時代