谷中墓地
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谷中霊園花見客で賑わう谷中霊園、左側の建物が駐在所
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詳細
開園1874年(明治7年)9月1日
所在地東京都台東区谷中七丁目
日本
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度43分31秒 東経139度46分14秒 / 北緯35.7253度 東経139.7706度 / 35.7253; 139.7706座標: 北緯35度43分31秒 東経139度46分14秒 / 北緯35.7253度 東経139.7706度 / 35.7253; 139.7706
運営者東京都公園協会
総面積約10ha
建墓数7,000区画
ウェブサイト ⇒http://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index073.html
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谷中霊園(やなかれいえん)は、東京都台東区谷中七丁目にある都立霊園。旧称の谷中墓地(やなかぼち)と呼ばれることも多い。面積は102,537m2であり[1]、約7,000基の墓がある。鳩山一郎横山大観渋沢栄一渋沢敬三などが埋葬されている。JR日暮里駅から徒歩6分。

なお、東京都公園協会の管理区域外であるが、谷中霊園に取り囲まれる形で寛永寺の寛永寺谷中第一霊園や寛永寺谷中第二霊園、天王寺の天王寺墓地、了?寺の了?寺墓地等が存在する(案内図参照)[1]。このほか「徳川慶喜公墓所」が寛永寺谷中第二霊園に隣接する形で存在する[1]
歴史

明治維新後、明治政府神仏分離政策を進めたことで、神式による葬儀も増えた。しかし、墓地の多くは寺院の所有であったため埋葬場所の確保が難しく、公共の墓地を整備する必要に迫られていた。1874年(明治7年)9月1日[1]、明治政府は天王寺の寺域の一部を没収し、東京府管轄の公共墓地として谷中墓地を開設した。1935年(昭和10年)に谷中霊園と改称された。

谷中墓地で法要ができない不便さを解消するため、伯爵島津忠寛が発起人となって、1893年(明治26年)に浄土宗の寺院である功徳林寺が建立された。墓地に隣接した土地に寺院が建立された[2]
地理

かつては、感応寺(現・天王寺)の寺域の一部であり、中央園路は感応寺の参道であった。江戸期には、この感応寺で富くじが行われ、「江戸の三富」として大いに客を呼んだ。この客を当て込んで茶屋参道入り口に立ち並び、現在でもその名残から墓地関係者は中央園路にある花屋のことを「お茶屋」と呼んでいる。

谷中霊園の付近には寺院が多く、谷中霊園に取り囲まれる形で寛永寺の「寛永寺谷中第一霊園」や「寛永寺谷中第二霊園」、徳川慶喜公墓所、天王寺の「天王寺墓地」、了?寺の「了?寺墓地」等の墓所、さらに谷中天王寺の五重塔跡などが存在しており土地が入り組んでいる(案内図参照)[1]

中央園路の半ばには五重塔跡がある。この五重塔は幸田露伴の小説『五重塔』のモデルとなったもので、1908年(明治41年)に天王寺より寄贈されたものであった。この五重塔は1957年(昭和32年)に谷中五重塔放火心中事件で焼失するが、東京都によって史跡に指定された。五重塔跡は児童公園(天王寺公園)内にあり、公園に付随する形で駐在所がある。

谷中霊園はの名所としても親しまれている。中央園路は通称「さくら通り」ともよばれ園路を覆う桜の枝に花が咲くと、まるで桜のトンネルのようになる。しかし、石原都政が始まった2000年代以降から現在まで、同都政以前からあった「公園型霊園」計画案として再整備するため、再貸付スペースや公園型スペースの確保を目的として、使用料の払われていない箇所の無縁仏への改葬と共に、大木など木々の伐採も進められている。
埋葬されている著名人
あ行

青山胤通(医学博士)

朝倉文夫(彫刻家)[3]

浅田宗伯(漢方医)

浅利鶴雄(元俳優三田英児)

阿部正邦(備後国福山藩初代藩主)、正福(備後国福山藩第2代藩主)、正右(同藩第3代藩主)、正倫(同藩第4代藩主)、正精(同藩第5代藩主)、正寧(同藩第6代藩主)、正弘(同藩第7代藩主)、正教(同藩第8代藩主)、正桓(同藩第10代藩主)

天津乙女宝塚歌劇団団員)

有坂成章(軍人、男爵)

池田蕉園(日本画家)

井関盛艮(宇和島藩士)

六代目市川団蔵(歌舞伎役者)、七代目団蔵(歌舞伎役者)、八代目団蔵(歌舞伎役者)[3]

一条美賀子(公家)

伊藤圭介 (日本初の理学博士)

稲垣浩(映画監督)

稲垣千頴(国学者、作詞家。「蛍の光」)

井上正鉄(国学者、神道家)

色川武大(小説家)

岩村通俊(政治家)

今村清之助(実業家)

今村繁三(銀行家)

上田良貞(西南戦争警視抜刀隊指揮長、警察官、薩摩藩士)

円地文子(小説家)

大原重徳(公家)

岡崎惟素(茶道織部流12代・三菱商会副支配人)

小平浪平(実業家)

か行川上音二郎の碑

影万里江(女優)

柏戸剛(第47代横綱)

勝精(実業家、徳川慶喜の息子、勝海舟の養子)

鏑木清方(日本画家)

川上音二郎(新派俳優。「オッペケペー節」)

菊池大麓(数学者、政治家)、菊池正士(物理学者)

菊池容斎(日本画家)

岸本辰雄明治大学創設者)

吉川重吉(貴族院議員)

吉川重国(宮内庁・宮内省官僚、華族)

木村正辞(国学者)

日下義雄(政治家)

楠本正隆(政治家、男爵)

雲井龍雄(幕末志士)

来島恒喜(活動家)

河内桃子(女優)

小林愛雄詩人作詞家翻訳家、訳詩:「恋はやさし野辺の花よ」、「ベアトリ姉ちゃん」など。)


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