讃岐国
■-讃岐国
■-南海道
別称讃州(さんしゅう)
所属南海道
相当領域香川県[注 1]
諸元
国力上国
距離中国
郡・郷数11郡90郷
国内主要施設
讃岐国府香川県坂出市
讃岐国分寺香川県高松市(讃岐国分寺跡)
讃岐国分尼寺香川県高松市(讃岐国分尼寺跡)
一宮田村神社(香川県高松市)
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讃岐国(さぬきのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。南海道に属する。現在の香川県。上国。 古事記に見る神代の呼称は「飯依比古」と云い、伊予之二名島の顔の一つとされた。国名の表記として、「讃岐」のほか「讃伎」「賛支」とも表記されたことが木簡から分かっている[1]。 高松藩の藩儒
国名
現在でも香川県の地域区分として「東讃」「中讃」「西讃」という名称が使用されている。 律令制において、讃岐国造の領域であった現在の香川県の四国部分と、おそらく塩飽諸島を範囲として成立した。江戸時代に小豆島と直島諸島が備前国から譲られた。 平安時代初期には真言密教を興すことになる空海が讃岐国那珂郡に生まれた。平安末期には瀬戸内海水運を握っていた平家が屋島を根拠地の一つとしていたが、源義経の奇襲に敗れて滅んだ。室町時代には細川氏が讃岐に根を張る南朝方を白峰合戦
沿革
近代以降の沿革
「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での国内の支配は以下の通り(395村・293,628石余)。太字は当該郡内に藩庁が所在。国名のあるものは飛地領。
香川郡(49村・40,353石余) - 高松藩
三野郡(37村・30,106石余) - 丸亀藩、多度津藩
豊田郡(46村・20,655石余) - 丸亀藩
大内郡(34村・14,642石余) - 高松藩
那珂郡(46村・28,630石余) - 幕府領(倉敷代官所)、高松藩、丸亀藩
寒川郡(27村・21,919石余) - 高松藩
鵜足郡(30村・29,034石余) - 高松藩、丸亀藩
山田郡(33村・29,364石余) - 高松藩
三木郡(20村・17,491石余) - 高松藩
多度郡(24村・17,314石余) - 丸亀藩、多度津藩
阿野郡(36村・31,576石余) - 高松藩
小豆島(所属郡なし/9村・9,037石余) - 幕府領(倉敷代官所)、美作津山藩
塩飽島(所属郡なし/1村・2,613石余) - 自治領(高松藩預地)
直島・男木島・女木島(所属郡なし/3村・888石余) - 幕府領(高松藩預地)
1868年(慶応4年)
1月20日 - 直島・男木島・女木島・塩飽島が高知藩預地となる。
5月16日 - 新政府が倉敷代官所に倉敷県を設置。
5月23日 - 直島・男木島・女木島・塩飽島が倉敷県に移管。
1871年(明治4年)
2月5日 - 多度津藩が廃藩となり、領地が倉敷県の管轄となる。
8月29日 - 廃藩置県により、藩領が高松県、丸亀県、津山県の管轄となる。
10月5日 - 国内の倉敷県の管轄地域が丸亀県に移管。
11月15日 - 第1次府県統合により、津山県の管轄地域(小豆島西部)が北条県、残部が香川県(第1次)の管轄となる。
1872年(明治5年)1月25日 - 小豆島西部が北条県から香川県(第1次)に移管。全域が香川県(第1次)の管轄となる。
1873年(明治6年)2月20日 - 名東県の管轄となる。
1875年(明治8年)9月5日 - 香川県(第2次)の管轄となる。
1876年(明治9年)8月21日 - 第2次府県統合により愛媛県の管轄となる。
1888年(明治21年)12月3日 - 香川県(第3次)の管轄となる。
国内の施設全ての座標を示した地図 - OSM
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