護聖院宮
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聖護院宮」とは異なります。

護聖院宮家

家祖惟成親王
後村上天皇皇子
種別皇族(世襲宮家
出身地大和国
主な根拠地近江国滋賀郡護正院
凡例 / Category:日本の氏族

護聖院宮(ごしょういんのみや)は、日本皇室における宮家の一つ。室町時代に存在した。
概要

南朝系の世襲宮家の一つ。後村上天皇の皇子で、後亀山天皇東宮(皇太弟)であった某親王を家祖とするが、近年の研究ではこれを惟成親王に比定する説が有力である。南北朝合一の後、皇位回復を目指して反幕姿勢を崩さなかった小倉宮家とは対照的に、概ね幕府体制に順応的な態度を取っていた。

宮号は、比叡山延暦寺の有力坊院である護正院(護聖院)に隠棲していたことに由来すると考えられている。同院は建武期から梶井門跡の筆頭門徒として室町幕府の政治的・軍事的な信頼が厚かったため、幕府が敵対を懸念する南朝皇族を託す先として適当だったらしい。「護聖院」の表記には、護正院・護生院・護性院・五常院などの字が宛てられることもある。
系図

               

      97代天皇
後村上天皇     

               

      初代護聖院宮
惟成親王     

                         
                     
  成仁王
醍醐寺地蔵院) 2代護聖院宮
世明王 円悟
円満院) 円胤
円満院) 恵林寺比丘尼
景愛寺長老) 

                
     
      3代護聖院宮
通蔵主
相国寺常徳院) 金蔵主
万寿寺/相国寺鹿苑院) 


歴代当主
惟成親王詳細は「惟成親王」を参照

後村上天皇の皇子にして、後亀山天皇東宮(皇太弟)。母は二条師基猶子嘉喜門院か(『満済准后日記』永享3年10月28日条)。立太子の時期は明らかでない。元中9年/明徳3年(1392年)10月後亀山天皇が将軍足利義満の提示した講和条件(明徳の和約)を受諾したため、親王は天皇に同行して入洛し、閏10月5日神器渡御に伴い東宮位を辞退。ただ、和約の一両統迭立の条件が結局幕府によって破られたため、事実上の廃太子と言えよう。明徳5年(1394年)2月後亀山とともに天龍寺で初めて足利義満を引見したが、その出御の儀は御幸始の体裁を擬していたという。当時はまだ「護聖院宮」と呼ばれていないので、宮家の創設はこれ以降である。

南朝皇胤は残存史料の少なさゆえに(実名)すら判明しないことがあるが、護聖院宮家の初代親王もその例外ではない。この問題について、旧来の通説では、江戸時代に作成された南朝系図を根拠として、説成親王(上野宮)に比定されることが多かった。しかし近年の研究では、『看聞日記』における護聖院宮と上野宮とが明確に区別されていることから、両者は別人であることが森茂暁によって指摘され、さらに、『吉田家日次記(兼敦朝臣記)』応永5年(1398年9月29日条に「法皇・護聖院殿法皇御舎弟、於南朝春宮・帥宮同御舎弟」とあることを発見した小川剛生によって、「護聖院殿」は後亀山の皇太弟にして泰成親王帥宮)の兄に当たる惟成親王であろうとの推測がなされた。惟成は応永10年(1403年)頃以前に出家・隠棲したとみられるので、この頃には既に子の世明王が護聖院宮家を継いでいたと考えねばならない。
世明王

初代親王の子。世明宮とも。程なくして出家した父の跡を継いで、実質的に宮家の当主として行動したのは、この世明王であったらしい。応永19年(1412年)正月新年参賀のために幕府御所へ赴き、応永21年(1414年)4月の義満七回忌には玉川宮長慶天皇の皇子)とともに供物を、応永27年(1420年)5月の義満十三回忌には後亀山法皇とともに供物を献じた。応永30年(1423年)2月には前円満院宮(円悟か)との確執から刃傷に及び、宮を殺害して自らも負傷するという一件が起こったが、これについて、村田正志は「当時における皇位継承に関する御意見の相違に基づくものであつたか」と憶測している。正長2年(1429年)3月足利義教将軍宣下には使者阿野実治をしてこれを賀し、その際万里小路時房から当時出奔していた小倉宮聖承の動向について尋ねられたが、阿野実治は承知していないと答えた。


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