護国神社(ごこくじんじゃ、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:護國神󠄀社󠄁)は、国家のために殉難した人の霊(英霊)を祀るための神社。1939年(昭和14年)に招魂社から改称[1][2]。第二次世界大戦前は内務省によって管轄されていたが、第二次世界大戦後は独立の宗教法人となる[2]。指定護国神社は東京都と神奈川県を除く道府県に建立され[注 1]、その道府県出身ないし縁故の戦死者、自衛官・警察官・消防士等の公務殉職者を主祭神とする。 護国神社は、明治時代に日本各地に設立された招魂社が、1939年(昭和14年)3月15日公布、同4月1日施行された「招魂社ヲ護國神社ト改称スルノ件」(昭和14年内務省令第12號)[1]によって一斉に改称して成立した神社である。「招魂社」の名称は、「招魂」が臨時・一時的な祭祀を指し、「社」が恒久施設を指すため、名称に矛盾があるとして護国神社に改称された[3]。「護国」の名称は、1872年12月28日(明治5年11月28日)の徴兵令詔書の一節「國家保護ノ基ヲ立ント欲ス」、1882年(明治15年)1月4日の『軍人勅諭』の一節「國家の保護に尽さば」など、祭神の勲功を称えるに最も相応しく、既に護国の英霊等の用語が用いられて親しみも深い、との理由で採用された[4]。護国神社の総数は、1939年(昭和14年)4月時点で131社とされている[4]。 社格は、護国神社制度導入と同時に改正された「府縣社以下神社ノ神職ニ關スル件」(明治27年勅令第22號)第1條第1項により[5]、内務大臣が指定した府県社に相当する指定護国神社と、それ以外の村社に相当する指定外護国神社に分けられる。1945年(昭和20年)8月のポツダム宣言受諾により、日本がGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の占領統治下に置かれると、護国神社は軍国主義施設とみなされ、存続を図るために名称から「護国」の文字を外すなど改称を余儀なくされた[注 2]。改称した神社は、1952年(昭和27年)にサンフランシスコ講和条約が発効して日本が主権を回復すると、大多数は旧社名に戻している。第二次世界大戦後、いくつかの指定護国神社は神社本庁の別表神社となっている。 各護国神社の祭神は靖国神社[注 3]の祭神と一部重なるものの、靖国神社から分祀された霊ではなく、独自で招魂し祭祀を執り行っている[注 4]。そのため、公式には護国神社は「靖国神社とは本社分社の関係にはない」とされている。しかし、共に英霊を祀る靖国神社と護国神社とは深い関わりがあり、各種の交流もある。主要な護国神社52社で組織する全國護國神社會(旧・浦安会)は靖国神社と連携し、英霊顕彰のための様々な活動を行っている。なお、沖縄県護国神社では沖縄戦で犠牲になった一般住民、遭難学童及び文官関係戦歿者も祭神として祀られている[6][7]。また、広島護国神社では原子爆弾の犠牲になった勤労奉仕中の動員学徒、女子挺身隊員等約一万柱も祭神として祀られている[8][9]。 第二次世界大戦後のGHQによる神道指令発令後、国家が神社に指揮監督する権限が無くなり、護国神社の祭神を靖国神社の祭神と定めた法令は失効した。 法令の失効や、岸本英夫東京帝国大学文学部助教授(当時)の示唆もあってか、一部の護国神社でその護国神社に祀られるべき靖国神社以外の御祭神を奉祀する例が出始めた。郷土の偉人や殉職自衛官を祀る護國神社は全部で札幌、秋田、新潟、福島、栃木、山梨、長野、富山、石川、福井、松江、愛媛、香川、徳島、高知、山口、佐賀、大分、長崎、熊本、宮崎、鹿児島、沖縄の計23社に及ぶ[10]。 島矢大嗣の『護國神社における殉職自衛官の相殿奉斎等の詮衡の一考察』によれば「殆どの護國神社で靖國神社以外の御祭神を奉祀する際には、本殿とは別の御神体に奉祀され明確に区別されてきた。」と指摘している[10]。 1960年(昭和35年)に全国の護国神社52社に対して昭和天皇・香淳皇后より幣帛が賜与されて以降、1945年(昭和20年)から数えて10年ごとに幣帛の賜与が続けられている。また、1960年代までは、天皇・皇后が全国各地で開催される全国植樹祭、国民体育大会に出席する際などに、各地の護国神社を行幸啓先の一つとする例が見られた[11]。 護国神社は、建立以来、主として戦没者の遺族会や戦友会が運営的・財政的に支えてきた。しかし、戦没者を直接知る遺族や戦友たちの高齢化とともに、その数は減りつつあり、財政的危機に見舞われる護国神社が増えると見られている。そのため、旧指定護国神社を中心に崇敬会・崇敬奉賛会を設立している。なお、東京都目黒区五本木に存在した目黒護国神社は、1959年(昭和34年)10月に目黒護国神社崇敬会を設立して管理していたが、役員が亡くなって引き継ぐ管理者もなかったため、目黒区の外部監査で指摘を受け、2008年(平成20年)5月に取り壊されている[12][13]。 幕末の長州藩・薩摩藩等では、国事殉難者・戦没者の霊を祀るために招魂場を設けて招魂祭を営んでいた。朝廷においても1868年6月29日(慶応4年5月10日)の太政官布告第385條[14]・第386條[15]により、1853年(嘉永6年)以来の国事殉難者と伏見戦争以後の戦死者を京都東山に建立した祠宇(霊山官祭招魂社、後の京都霊山護国神社)に合祀した。また同年7月21日(慶応4年/明治元年6月2日)には、東征大総督・有栖川宮熾仁親王が江戸城大広間において官軍戦没者の招魂祭を実施した。同様に各地の藩主等も所属藩士の戦没地または縁故の地に招魂場を設けて祭祀を行った。翌1869年(明治2年)には東京九段坂上に「東京招魂社」(後の靖国神社)が創建され、戊辰戦争以来の戦没者を合祀した。 1871年(明治4年)の廃藩置県により、旧藩主又は人民の私設した招魂場は明治新政府の管掌下に置かれ、1874年(明治7年)には招魂場敷地の地租免除と、祭祀料・営繕費の官費支給が定められた[16]。
概説
沿革