護国卿(ごこくきょう、英語: Lord Protector)は、イングランド王国において王権に匹敵する最高統治権を与えられた官職。敬称は殿下(His Highness)。特にイングランドの清教徒革命(イングランド内戦)後に成立したイングランド共和国における国家元首としての官職を指すことが多い。 イングランドにおいて「護国卿」の称号は、王が幼年の時や執務不能のときの後見人の称号としてしばしば用いられていた。護国卿を名乗った後見人には以下の者がいる[1]。 最初の護国卿であるベッドフォード公・グロスター公兄弟は甥ヘンリー6世が幼少のため1422年に任命された。当時イングランドは百年戦争の成果として1420年に締結されたトロワ条約でイングランド王がフランス王も兼任しイングランド・フランス二重王国が誕生、ベッドフォード公はフランスを、グロスター公はイングランドを統治することになった。ところがグロスター公は諸侯の支持を得られず権力を制限され、外敵と内乱からの王国守護の任務を与えられたにとどまり、聖俗貴族20人からなる評議会の助言を受けて統治することになったため、これに不満を抱いたグロスター公はしばしば叔父のヘンリー・ボーフォート枢機卿と対立した。1429年、ヘンリー6世の戴冠式挙行に伴い護国卿は廃止された[1][2]。 2度目の護国卿は1454年、ヘンリー6世の遠縁に当たるヨーク家出身のヨーク公リチャードが任命された。ヘンリー6世は1453年に発狂して統治不能になったため貴族の要請でヨーク公が就任、勢力拡大を図ったが、ヘンリー6世が正気に戻ると共に寵臣のサマセット公エドムンド・ボーフォートが権勢を振るい、ヨーク公は1455年に護国卿を解任され立場が危うくなった。ヨーク公は反撃に出て薔薇戦争初戦の第一次セント・オールバンズの戦いでサマセット公を討ち取り、ヘンリー6世が再び発狂したため護国卿に再任された。だが、サマセット公に代わって宮廷を掌握した王妃マーガレット・オブ・アンジューが新たな敵として台頭、1456年にヨーク公はまたもや護国卿の座を失い、ランカスター家とヨーク家の対立で薔薇戦争が激化していった[1][3]。
沿革
王国時代
ベッドフォード公ジョン、グロスター公ハンフリー(1422年 - 1429年、ヘンリー6世の幼少時)
ヨーク公リチャード(1454年 - 1455年、1455年 - 1456年、1460年、ヘンリー6世の精神錯乱時)
グロスター公リチャード(1483年、エドワード5世の幼少時)
サマセット公エドワード・シーモア(1547年 - 1549年、エドワード6世の幼少時)