(国旗)(国章)
国の標語: PAX QUARITUR BELLO
(英語: Peace is sought through war)
公用語初期近代英語、初期近代アイルランド語、中期スコットランド語、スコットランド・ゲール語、後期近代ウェールズ語、コーンウォール語、ヨーラ語
イングランド共和国(イングランドきょうわこく、英語:Commonwealth of England)は、1649年から1660年までの間、イングランド王国(ウェールズを含む)と、後にはアイルランド王国・スコットランド王国を支配した共和制の政治体制。1649年1月30日のチャールズ1世の処刑の後、同年3月19日に残部議会によってはじめてその樹立が宣言された。1653年から1659年までの間はオリバー・クロムウェル、彼の死後はその息子リチャード・クロムウェルによる2代にわたっての護国卿による独裁が敷かれており、この時代は特に護国卿時代と呼ばれる。イングランド共和国という呼称は、1649年から1660年までの間の政治体制を大まかに指し示す呼称である。
目次
1 イングランド共和国(1649-1653)
1.1 残部議会(1648-1653)
1.1.1 構成
1.1.2 問題点と功績
1.1.3 改革
1.1.4 解散
1.2 ベアボーン議会(1653年7月-11月)
2 イングランド共和国(1659-1660)
3 改革派対保守派
3.1 水平派
3.2 真正水平派
3.3 宗教上の教派
3.4 保守派
4 出典
残部議会は、プライドのパージによって、ニューモデル軍 プライドのパージによって、王を裁判にかけることに反対する(ほとんどの長老派を含む)下院議員はすべて排除されたため、必然的に残部議会は200人を割った(通常の議会の半分以下)。残部議会は、国教会を認めない・反乱に同調する独立派、長老派の王の裁判・処刑に賛成する勢力、ニューポート協定(1648年9月15日から交渉が開始された王との停戦協定。失敗に終わった)の交渉を批判しようとした下院議員などの後に参加した勢力などで構成された。 以前の議会では下級ジェントリや法律家の議員が比較的多かったが、残部議会のメンバーはほとんどジェントリで、レジサイド(大逆者:チャールズ1世を死刑にした裁判官)は残部議会のうち4分の1以下であった。このため残部議会は基本的に保守勢力を維持し、土地領有権や法的システムを変えることは好まなかった。 コモンウェルス成立後の2年間、残部議会は不景気とスコットランド・アイルランドの侵略の脅威に晒されることとなった(1653年までに、クロムウェルと軍はこれらの大部分を排除した)。 残部議会内では派閥同士で多くの論争が起こった。共和制を支持する者もいれば何からの形で君主制を維持したいと考える者もいた。イングランドの伝統的な支配階級は、残部議会をレジサイドと成り上がり者によってでっち上げられた違法政府だと考えていたが、一方で完全な軍事独裁政府への道を歩んでいる可能性にも気づいていた。ジェントリは軍事費のための重税に不満を募らせており、制約付きの改革(後述)は支配階級の反感を呼び、改革派にも不満が残る内容であった。 不人気にもかかわらず、残部議会は旧体制との橋渡しの役目を果たしてイングランドの情勢を落ち着かせ、史上最大の大変動の後のイングランドを安定させた。1653年には、フランスとスペインがイングランドの新政府を認知するに至った。 国教会が維持されているにもかかわらず、1559年の統一令 法律・訴訟上の手続きに関して、例えば訴訟上の手続きが法学フランス語 残部議会は人々の生活を規制する「道徳」法を多く可決させた。劇場を閉鎖したり日曜の礼拝を強制したりといったこれらの法律はジェントリの大部分を敵に回した。 クロムウェルはトマス・ハリソンの助けを得て、1653年4月20日に不透明性を理由に残部議会を解散させた。学説上は、残部議会が政府として存続することを恐れたとも、残部議会が反共和国勢力を呼び戻す選挙の準備をしていたからともいわれる。元残部議会のメンバーの多くはイングランド唯一の正当な政治権力を自称し続けていた。イングランド内戦の直前に制定された法によって、議会はみずからの同意がない限り解散できないとされていたことが、残部議会の法的根拠になっていた。 残部議会の解散は、クロムウェルと軍の一元的支配で速やかに執行された。選挙を行える執政権力を持つ存在は無かったが、クロムウェルは軍事独裁を全面に出すことは好まなかった。従ってクロムウェルは軍をコントロールするため軍の指名者によるベアボーン議会
イングランド共和国(1649-1653)
残部議会(1648-1653)
構成
問題点と功績
改革
解散
ベアボーン議会(1653年7月-11月)