議会の大諫奏
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議会の大諫奏(ぎかいのだいかんそう、英語: Grand Remonstrance)または大抗議文(だいこうぎぶん)は、1641年スコットランド反乱(主教戦争)鎮圧の軍費入手のためにイングランド・スコットランド同君連合の君主であるチャールズ1世が召集したイングランド議会において、議会が国王に対して提出した諫奏(忠言)、抗議文。チャールズ1世が承認を拒否し議会と国王の対立が激化、清教徒革命イングランド内戦)に至った。
背景

チャールズ1世は父ジェームズ1世同様王権神授説を信奉し、議会と対立した。議会の承認を得ない課税を国民に課し反対派を投獄、外交政策は寵臣のバッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズが取り仕切っていたが、ことごとく失敗し費用の無駄遣いになったことは議会の怒りを増幅させ、バッキンガム公はしばしば非難され彼を庇うチャールズ1世が議会を解散、金に困ったチャールズ1世が課税を承認してもらうために議会再召集ということが繰り返された[1]

1628年3月に召集された議会より「権利の請願」が提出され、課税には議会の承認を得ることが求められた。これに対しチャールズ1世は6月に一旦請願受託の署名を行ったが、議会休会中にバッキンガム公が暗殺され寵臣を失い、再開された議会が政府非難を止めなかったため翌1629年に議会を解散、下院の指導者ジョン・エリオットを投獄して獄死に追いやり、"Eleven-years' Tyranny"(専制の11年間)とよばれる専制政治をおこなった[2]

この間チャールズ1世は、再び議会承認のない課税を強行、バッキンガム公に代わる側近のカンタベリー大主教ウィリアム・ロードの助言でイングランド国教会による国家統一に乗り出し、ピューリタンを弾圧した。ロードの政策により、スコットランドにも国教を強制するにおよんでスコットランド各地で反乱が起き、1638年にスコットランド貴族が国民盟約を結成、1639年盟約派とチャールズ1世との間に主教戦争が起こった。アイルランドでもロードと並ぶ側近のストラフォード伯爵トマス・ウェントワースが住民へ弾圧政策を行ったため不満が蓄積していった[3]

主教戦争は国王軍が敗れ、スコットランドへ賠償金を払えないほどの財政難に陥ったチャールズ1世は1640年に反乱鎮圧のための戦費あるいは賠償金を得る目的で11年ぶりに議会を召集したが(短期議会長期議会)、エリオットに代わり下院を指導するジョン・ピムジョン・ハムデンらを先頭に議会は国王批判の場と化し、専制を行った政府への非難が再開され課税承認を得られない状況が繰り返され、1641年には専制の責任者としてストラフォード伯とロードが投獄された。やがて5月にストラフォード伯は処刑され(後にロードも処刑)、議会は専制を制限する立法に乗り出し、3年に1回の議会召集を国王に義務付け、専制で濫用された国王大権に制限がかけられトン税・ポンド税・船舶税などが廃止、星室庁高等宗務官裁判所などの大権裁判所も廃止され、8月までには一連の改革で専制に歯止めがかけられた。チャールズ1世もこれらの法案を承認、従来の議会と国王の対立は後者の権力制限で決着するかに思われた[4]

ところが、改革が国教会が採用する監督制の廃止(ロンドン市民の請願(根絶請願)に始まり、賛成したヘンリー・ベインオリバー・クロムウェルアーサー・ヘジルリッジら議会急進派が根絶法案として提出、10月に否決)にまでおよぶと議会に亀裂が入り、8月にチャールズ1世がスコットランドへ向かい議会への反撃を伺う中、10月にストラフォード伯がいなくなった後のアイルランドでカトリック住民の反乱(アイルランド反乱(英語版)・アイルランド同盟戦争(英語版))が発生、現地イングランド人が大勢殺害された知らせが入り、騒乱状態になった議会で派遣軍が検討され募金が集められた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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