警視庁_(内務省)
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警察庁」とは異なります。

この項目では、1874年から1948年までの警視庁について説明しています。

1948年から1954年までの警視庁については「警視庁 (旧警察法)」をご覧ください。

1954年以降については「警視庁」をご覧ください。

日本行政機関.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}警視庁(けいしちょう)
.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}警視󠄁廳
1931年から1977年まで使用された、建て替え前の旧本庁舎(写真は昭和前期のもの)
役職
警視総監齋藤昇(最終)
組織
上部組織内務省
内部組織警務部
刑事部
保安部
衛生部
消防部
概要
所在地東京都千代田区霞ヶ関一丁目2番地
設置1874年明治7年)1月15日
廃止1948年(昭和23年)3月7日
後身国家地方警察東京都本部警視庁 (旧警察法) - 警視庁
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鍛冶橋第一次庁舎(旧津山藩江戸藩邸)。1874年(明治7年)1月15日から1882年(明治15年)12月4日まで使用。1877年(明治10年)1月11日から1881年(明治14年)1月14日まで、内務省警視局「東京警視本署」に改編された。庁舎はそのまま使用。鍛冶橋第二次庁舎。1882年(明治15年)12月4日から1911年(明治44年)3月30日まで使用。日比谷赤煉瓦庁舎。1911年(明治44年)3月30日から1923年(大正12年)9月1日まで使用。関東大震災による火災で炎上する日比谷赤煉瓦庁舎。1923年(大正12年)9月1日。関東大震災後の仮庁舎。1930年(昭和5年)。

警視庁(けいしちょう、旧字体:警視󠄁廳)は、1874年明治7年)から1948年昭和23年)まで存在した東京府(後に東京都)の警察を管轄する内務省の地方官庁である。自治体警察(1948年-1954年)になる前の「東京警視庁」とも呼ばれた組織である。
概要

1874年明治7年)1月15日、鍛冶橋内旧津山藩江戸藩邸に設置され、旧薩摩藩士の川路利良が初代大警視(後の警視総監)に任じられた。

警視長 - 三等、以下、大警視 - 五等、権大警視 - 七等、少警視 - 八等、権少警視 - 九等、権大警部 - 十等、中警部 - 十一等、権中警部 - 十二等、少警部 - 十三等、権少警部 - 十四等、などの官等と職制、事務年程が制定された。

府内を6大区に、各大区を16小区に分け、大区に警視出張所を、小区に邏卒屯所を配置した。2月2日に邏卒を「巡査」と改称した。

東京以外の府県警察部知事が管轄していたが、東京に関しては内務省が直接警視庁を置き統制下においた。当時の東京府は予算以外に警察に関する権限がなかった(現在も、各警察への指揮命令権は国の機関である警察庁にある)。

太平洋戦争での日本の敗戦後、日本の占領統治を担った連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の公安課は、警察制度改革の一環として首都警察である警視庁の特権的地位を剥奪するために、1947年(昭和22年)9月30日付覚書で警視庁 (内務省)を自治体警察にすべきと指示[1]1948年(昭和23年)3月7日、旧警察法が施行され日本の警察組織は国家地方警察自治体警察の2本立てとなり[2]、警視庁 (内務省)は、国家地方警察東京都本部、特別区(23区)を管轄する警視庁 (旧警察法)、市町村自治体警察に解体・廃止された[3]。この際、GHQは警視庁の名称を他の都市の自治体警察が使用することに反対しないことを条件に、東京23区を管轄する自治体警察が「警視庁」の名称を用いることを許可している[1]。「警視庁#警視庁の名称」も参照

その後、日本の主権回復後の1954年(昭和29年)7月1日、新警察法の施行により、国家地方警察と自治体警察が廃止となり、警察庁都道府県警察に再編成され、再び警察組織が一本化される。これにより、国家地方警察東京都本部(15署)と警視庁 (旧警察法)、八王子市警察などの4市警察が廃止・統合され、再び東京都全域を管轄とした現在の警視庁に再編成されている[4]
東京警視本署

警視庁発足時から各地で士族反乱が発生し、地方の警察力では対処できなかった。政府は全国の警察を一元化するため、1877年(明治10年)1月11日に警視庁を廃止し、内務省警視局直轄の東京警視本署へと改編した。(庁舎はそのまま使用された)

川路利良大警視は内務省に対し兵器の貯蔵を上申し、東京警視本署は陸軍省から7000挺の小銃を借用して、陸軍将校の派遣を受け、軍事訓練を行った。1877年(明治10年)、最大の士族反乱となった西南戦争警視隊(9500名)を編成して従軍し、陸軍を支援した。

西南戦争終戦後、国内の治安が安定すると、武断的な警察に批判が高まり、1881年(明治14年)1月14日に警視庁が再設置され、本来の警察業務に戻った。
警視総監の地位

警視総監東京府知事と同じ勅任官であったが、俸給は府知事よりも多く(内務次官陸海軍中将と同額)、警視総監の方が格上とみなされていた。後に東京都制が施行され、親任官の東京都長官(俸給は国務大臣相当の待遇であり、また、1945年(昭和20年)8月23日の閣議了解で、必要に応じ閣議への参加も認められた)が置かれたことで逆転した。

また、警視総監は府県知事の「府県令」と同様の「警視庁令」という命令を発することができた。
沿革

以下の略年表は、主に『警視庁百年の歩み』の「警視庁略年表」[5]を参考にしている。

1868年(明治元年)[5]

4月16日 - 東征大総督府薩摩藩ほか11藩から藩兵を拠出させ、江戸市中取締りを命じる。

7月17日 - 東京府庁内に捕亡方、断獄方を設置。

12月5日 - 政府は東京府を47区に分け、田安藩など30藩に兵を出させ巡邏を命じる。


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