警視庁警備部(けいしちょうけいびぶ、英語: Security Bureau of the Metropolitan Police Department)は、警視庁の内部組織の一つ。警備警察のうち、集団警備力および災害対策を所掌する。 警視庁創設当初の警務部から分離独立するかたちで、1949年3月7日に設置された警備交通部が起源となる。その後、1952年4月15日には、警備交通部をもとに、地域警察・交通警察部門としての警邏交通部と、警備・公安警察部門としての警備第一・第二部に分離再編された。そして1957年3月30日、警備第一部が警備部、警備第二部が公安部と改称した[1]。 2021年10月1日の組織改正で航空隊が地域部から移管された[2]。
来歴
編制
警備第一課
庶務:庶務係
会計:会計係
警備企画(警備基礎資料): 警備企画係、警備管理第1・2係
警備実施(警備計画): 警備実施第1 - 3係
機動隊(機動隊の管理等): 機動隊第係
警備情報(警備情報収集、分析): 警備情報第1 - 3係
警備連絡(警備資料作成): 警備連絡係
警備現場(警備現場記録等): 警備現場第1・2係
危機管理室
特殊部隊(SAT)
東京国際空港テロ対処部隊
警備第二課
警備調査(警備対策): 警備調査係、警備対策係
警備訓練: 警備訓練第1 - 2係
警備装備: 警備装備第1係、警備装備第2係、警備装備第3係(警備犬)
爆発物対策: 爆発物対策1,2係
災害対策課
震災警備: 震災警備係
都市災害警備: 都市災害警備係、機動救助隊係
特殊救助隊(SRT)
警護課: セキュリティポリス(SP)
警護管理係(庶務担当)
機動警護係
警護第1係(内閣総理大臣担当)
警護第2係(衆議院議長、同副議長、参議院議長、同副議長、最高裁判所長官及び国務大臣担当)
警護第3係(国賓、公賓及び外交使節団の長並びにこれに準ずる者担当)
警護第4係(政党要人等、指定対象者、その他担当)
総理大臣官邸警備隊
警衛課
警衛管理係
上皇警衛係(上皇・上皇后担当)
警衛第1係(天皇・皇后・皇子担当)
警衛第2係(皇嗣・皇嗣妃
警衛第3係(内廷外皇族担当)
第一 - 第九機動隊
特科車両隊
機動隊前身となった部隊については「警視庁予備隊」を、他道府県警の同種部隊については「機動隊」を参照
第一機動隊
警備交通部時代の中央区隊を前身としており、近衛歩兵連隊跡に所在し、当初は兵舎の一部をそのまま隊舎として使用していた。また警視庁本部庁舎内警備にもあたっていることもあって、「警視庁近衛連隊」あるいは「直参旗本」と通称される[3]。「警視庁機動隊」隊長ともなり得る第一機動隊長には経験豊富なベテラン警視正(本部の主要課長級相当)が就く(他のほとんどの隊長は署長経験者の警視)。1956年、本隊内に特科車両中隊が設置され、1968年には特科車両隊と改称したが、1969年に分離独立して第八機動隊となった[4]。所在地:千代田区北の丸公園4番1号[5][6]
第二機動隊
方面予備隊時代の第七方面予備隊を前身として、海抜ゼロメートル地帯が多くを占める江東地域に所在していることから、水害警備に動員される機会が多く、装備・訓練ともに充実していることから「河童の二機」と通称される[3][注 1]。あさま山荘事件では、隊長が殉職、中隊長が重傷を負った。1970年10月14日には「ボート・アクアラング小隊」が発足し、1972年8月31日には水難救助隊として増強改編された[7]。所在地:墨田区横川橋5-2[6]→墨田区横川五丁目7番2号[8]→江戸川区臨海町一丁目2番2号[5]
第三機動隊
警備交通部時代の南部区隊を前身として、当初は旧陸軍輜重第一連隊跡地に所在していたため、特に春風が強い季節には、輜重連隊時代から練兵場に溜まった馬糞が大量の埃となって降り注いでいたことから、これを「誇り」とかけて、「ほこりの三機」と通称される[3]。輜重連隊以来の広い訓練場に恵まれたこともあって陸上競技に長けており、第三予備隊時代には陸上競技大会3連勝を達成して優勝パレードを敢行し、以後、対抗陸上競技大会は行われなくなった。また1963年3月に誕生した警視庁ラグビー部は本隊に設置されていた[3]。所在地:目黒区大橋二丁目17番16号[5][6]
第四機動隊
警備交通部時代の西部区隊を前身とする。1952年の早稲田大学事件を端緒として多くの警備出動に参加したが、特に安保闘争での東大生圧死事件ではマスコミの指弾を受け、「泣く子も黙る四機」や「殺しの四機」と称されており、学生運動全盛期の頃は全共闘を始め過激派学生から恐れられていた。しかしその後も警備を着実に遂行したことが評価され、いつしか警察内部でも「鬼の四機」と称されるようになった[3]。陸上競技が盛んで、特に近代五種がお家芸だった[9]。所在地:新宿区市谷本村町42番[9]→立川市緑町3567番地[5](第五・第八機動隊と同居していたが独立)
第五機動隊
方面予備隊時代の第五方面予備隊を前身としており、1963年に移駐するまでは文京区小石川に所在していたことから、周囲に大学が多く、また昇任試験の合格率も比較的高いことから、「学の五機」と通称された[3]。東大紛争では安田講堂正面を担当していた。日大紛争で殉職した西条警部も五機の所属である[9]。所在地:文京区小石川[3]→新宿区市谷本村町42番[9]→新宿区市谷本村町6番1号[5][11](第四・第八機動隊と同居していたが独立)