警視庁公安部(けいしちょうこうあんぶ)は、警視庁の内部組織の一つ。公安警察を所掌する[1]。 警視庁公安部は、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の人権指令により廃止された警視庁特別高等警察部の後継組織とされる[2]。 日本の公安警察は警察庁警備局の指揮下で活動しているが、中でも警視庁は唯一公安部を置いており、所属警察官約1100名を擁し、最大規模の公安警察官を抱えている[3]。 一方、道府県警察本部の公安警察は、警備部に「公安課」として設置されている。所轄警察署では警備課に公安係・外事係を設置することがある[1]。
概要
沿革
1945年(昭和20年)9月8日:占領軍の対敵諜報部隊(CIC)が、警視庁特別高等警察部を臨検[4]。
1945年(昭和20年)10月4日:GHQの「人権指令」[5][6]に基づき、警視庁特別高等警察部が廃止される[7]。
1945年(昭和20年)12月19日:警視庁に警備課を設置[7]。
1946年(昭和21年)2月:警視庁警備課を公安課に改称[7]。
1948年(昭和23年)3月7日:旧警察法が施行される。警察制度は、国家地方警察と自治体警察(市町村警察)の二本立てとなる[7]。
1948年(昭和23年)3月7日:国家地方警察東京都本部に警備部が設置される。警視庁 (旧警察法)に警備交通部警備課が設置される[7]。
1948年(昭和23年)9月16日:警視庁の機構改革が行われ、警備交通部が分けられて警邏部と交通部が設置される。これにより、警備課は警邏部に置かれる[7]。
1948年(昭和23年)10月1日:国家地方警察東京都本部で、思想的・政治的背景のある集団犯罪や特殊犯罪の管轄が、警備部に一本化される[7]。
1952年(昭和27年)4月:警視庁において警備公安警察を主管していた警邏部に代わって、警備第一部と警備第二部が設置される。警備第一部は「警備実施」を主管して警視庁予備隊(機動隊)を掌握し、警備第二部は「警備情報」活動を実施することになり、公安第一課・公安第二課・公安第三課が置かれる[7]。
1952年(昭和27年)5月1日:血のメーデー事件が発生[7]。
1952年(昭和27年)11月:警視庁警備第二部に「警備情報」の整理保存に当たる警備公安資料班が設置される。ほか、警備第一部に警備指揮班を設置[7]。
1953年(昭和28年)6月:警視庁が情報活動の法的根拠に関する統一見解を研究[7]。
1953年(昭和28年)7月:警視庁は情報活動に従事する警察官に対して、「何らかの時に役に立つことがあるかも知れないから、労組やデモ隊の顔写真は1枚でも余計に撮って保存するように」との指導を行う。これにより、デモの合法・非合法を問わず、デモの参加者への顔写真の撮影とリストの作成が本格化[7]。
1954年(昭和29年)6月8日:新警察法(現行警察法)が公布される[7]。
1954年(昭和29年)7月1日:警察法の施行。これに伴い、警察庁(1官房4部17課)と都道府県警察が設置され、警察機構が一本化された[7]。
1954年(昭和29年)7月1日:国家地方警察東京都本部警備部と警視庁 (旧警察法) 警備第一部・警備第二部が再編成され、新たに警視庁警備第一部・警備第二部・警視庁予備隊が設置される。このうち、警備第二部が公安警察活動を主管[7]。