中華民国の政治家謝 東閔謝 東閔
生年月日1908年1月25日
出生地 日本統治下台湾 彰化庁北斗支庁二八水区二八水庄
学歴
(上海)東呉大学法学院(中国語版)法律系修了 1927年-1928年
(広州)国立中山大学法学院政治系卒業 1931年
経歴
広州市自治会兼任幹事 1931年-
軍事訓練委員会少校秘書 1936年
香港郵政総局郵電検査処検査員 1938年-1941年
広西日報電訊室主任 1942年-1943年
広西日報編集長
中国国民党台湾党部執行委員 1943年5月-1945年
高雄州接管委員会主任委員 1945年-1946年1月
高雄県政府(官選初代)県長 1946年1月8日-1947年10月1日
高雄水利組合組合長 1945年10月-1946年11月30日
台湾省訴願委員会主任委員 1946年
台湾省行政長官公署民政処副処長 1946年10月-1947年5月
台湾省合作金庫理事長 1947年-1951年
台湾省政府教育庁副庁長 1947年5月-1953年
台湾省立師範学院院長 1948年-1949年
台湾新生報(中国語版)社董事長 1951年
中国青年反共救国団副主任 1952年-
中国国民党中央委員会副秘書長 1953年5月-
台湾省政府委員
台湾省政府秘書長 1954年6月7日-1957年
台湾省臨時議会(第3回)副議長 1957年-1960年
実践家政専科学校創立者 1958年
実践家政専科学校校長 1958年-1972年
台湾省議会(第2回)副議長 1960年-1963年
台湾省議会(第3回)議長 1963年-1968年
台湾省議会(第4回)議長 1968年-1972年
中国医薬学院董事長 1969年-1972年6月
台湾省政府(第9代)主席 1972年6月6日-1978年5月20日
総統府(第6代)副総統 1978年5月20日-1984年5月20日
総統府資政 1984年5月20日-2001年4月9日
中国国民党中央委員会中央委員
中国国民党中央委員会中央常務委員
謝 東閔(しゃ とうびん、1908年〈明治41年〉1月25日 - 2001年〈民国90年〉4月8日)は、中華民国の政治家。本名は謝進喜、号は求生。中華民国副総統(第6代)、台湾省政府主席(中国語版)(第9代)などを歴任した。台湾出身者(本省人)としては初めての副総統である。晩年は尊敬を込めて謝求公と称された[1][2]。出身地の二水郷では「東閔仙」とも呼ばれていた[3]。
経歴
前半生二水郷にある謝東閔の旧家
謝東閔は、1908年に台湾の裕福な家庭に生まれた。出生時の名前は謝進喜である。幼少期は二八水公学校(後に二水公学校と改称、現在の二水国民小学)、その後は台中州立第一中学(現在の台中一中)で過ごした[3]。中学時代に日本による台湾統治に不満を抱きはじめ、祖国である中華民国本土で学びたいという考えを持つようになった[4]。
1925年、謝は中学を卒業していなかったが、台湾から日本へ渡り、長崎から船に乗って上海へ向かった。
謝東閔は上海の東呉法学院に赴き、同年広東で就学した。1931年には広州の中山大学政治系を卒業し、日本語の助教として同大学で務める傍ら、広州や香港などで執筆活動も行っていた。
政治家として桃園文昌宮(中国語版)にある、台湾省主席時代の謝東閔から贈られた額(1972年7月)
1931年、謝東閔は広州市自治会兼任幹事に就任し、1936年には軍事訓練委員会の少校秘書を務めた。1938年から1941年までの、香港郵政総局郵電検査処検査員を経て、1942年に桂林市の広西日報社で電訊室主任、次いで編集長を務めた。その後、中国国民党台湾省党部の設立準備に参加要請を受けている。
謝は、1943年5月から1945年まで中国国民党台湾党部の執行委員を務め、?州、永安、福州などで抗日活動に従事した。1945年に日中戦争が終結すると、半山仔(中国語版)である台北州接管委員会主任委員の連震東(中国語版)などとともに、中華民国国民政府に随って台湾の船隊接収に携わった。その後、1946年1月まで高雄州接管委員会主任委員を務めた。
1946年以降は、1947年まで務めた高雄県政府(官派初代)首任県長をはじめ、台湾省行政長官公署民政処副処長(1946年10月)、台湾省政府教育庁副庁長、台湾省立師範学院(現在の国立台湾師範大学)院長、台湾新生報(中国語版)董事長、中国青年反共救国団副主任、中国国民党中央党部副秘書長、台湾省政府秘書長、台湾省議員、台湾省議会副議長、同議長などの要職を歴任した。台湾省立師範学院院長時代の1949年には、学生弾圧事件である四六事件が発生している。
1958年3月、謝は家政の専門家を育成することで社会改善を行おうと考え、私立実践家政専科学校(後に実践大学へと発展)を設立した[3]。
1972年6月、?介石により、謝東閔は台湾省政府主席(中国語版)に、張豊緒(中国語版)は台北市長に任命された[5]:128。?は2人を呼び寄せ、それぞれの省や市の様々な建設状況を尋ね、市民に対する行政サービスの拡充を要求した[5]:128。
双十節である1976年10月10日、省政府主席の謝東閔のもとに、台湾独立運動参与者である王幸男から爆弾が仕掛けられた郵便小包が届いた。