講談(こうだん)とは、演者が高座におかれた釈台(しゃくだい)と呼ばれる小さな机の前に座り、張り扇(はりおうぎ)でそれを叩いて調子を取りつつ、軍記物(軍記読み)や政談など主に歴史にちなんだ読み物を観衆に対して読み上げる日本の伝統芸能のひとつ。 起源は戦国時代の御伽衆(おとぎしゅう)であると言われているが、寄席演芸としての講談の原型は、江戸時代の大道芸のひとつである辻講釈(つじこうしゃく、または大道講釈)に求めることができる。辻講釈は太平記などの軍記物を注釈を加えつつ調子を付けて語るものである。 宝永年間には公許の常設小屋で上演されるようになり、「講釈」と呼ばれるようになった。文政年間には話芸としてほぼ確立し、幾つかの流派が誕生した。『守貞謾稿』の記述によると、興業は昼席が午の刻半ば?申の刻まで、夜席は六つ半?四つ時までが一般的で、料金は通常48文(未熟な演者は36文、子どもは半額)だったという。講談の享受層は幅広く、江戸時代に広く読まれた実録本との影響関係が見られるほか[1]、講釈での人気演目が歌舞伎や人形浄瑠璃化されることもあった。 江戸末期から明治時代にかけて、講釈は全盛期を迎え、明治時代以降、講釈は講談と呼ばれるようになった。「泥棒伯圓」とあだ名された二代目松林伯圓が出、明治政府より教導職を賜るのもそのころである。明治末期には立川文庫など紙媒体に講談の内容を元とした「書き講談」(講談本)が人気を呼んだ(その出版社の中に、講談社がある。講談本の成功ですぐに大手出版社になった)。また、新聞や雑誌に講談が連載されるようにもなった。しかし、明治末に浪花節、昭和に入っての漫才など他の人気大衆芸能の誕生、大衆メディアの発達など(「講談倶楽部」の臨時増刊「浪花節十八番」刊行に関するトラブル[注釈 1]に象徴される)に追いつけず、次第に衰微していった。第二次大戦後はGHQにより、仇討ちや忠孝ものが上演を禁止され一時は大きな影響を受けた。その後テレビの普及によって、講談はますます衰退した。 戦後、東京の講談界にしばしば協会の分裂騒動が発生していることも衰退の背景にあった。 1965年に「講談組合」のうち、五代目宝井馬琴と五代目神田伯山が脱退し「東京講談組合」を設立した(1967年に復帰)。1968年には「講談協会」に改組されているが、2年後の1970年に五代目馬琴は再び協会から離脱した。 1973年、田辺一鶴一門の女流講談師・田辺夕鶴(後に二代目神田山陽門下に移り、天の夕づるに改名)が始めた「ポルノ講談」[2]を巡って協会内で意見が対立し、さらに山陽会長の運営体制に対する不満も重なる形で、講談協会の解散動議に発展。賛成派多数により協会解散が可決され、山陽会長体制に否定的だった二代目神田ろ山・六代目小金井芦州・神田伯治・六代目一龍斎貞水・五代目宝井琴鶴ら合議制による「講談組合」と、神田山陽一門・田辺一鶴一門らの「日本講談協会」に分裂した(「第一次講談協会分裂」)[注釈 2]。さらに翌1974年には「講談組合」から琴鶴・五代目宝井琴梅・二代目宝井琴桜と六代目一龍斎貞丈門下の一龍斎貞正(後の五代目一龍斎貞花)が離脱し、先に「講談協会」を離脱していた琴鶴らの師匠の五代目馬琴と合流し「東京講談会」を結成したため、三団体が分裂する状況となった。その後、芦州が「講談組合」を、馬琴が「東京講談会」をそれぞれ離脱するなど、東京の講談界はますます混迷状態となっていた[3][4][5]。 この状況を憂いた日本演芸家連合理事長の四代目三遊亭金馬(落語協会、後の二代目三遊亭金翁)と副理事長の春風亭柳昇(落語芸術協会)が斡旋し、1980年に東京講談界は再び一本化し「講談協会」の発足に至った(ただし、神田伯治・二代目悟道軒圓玉・七代目一龍斎貞山は不参加)。 しかし、1991年に協会の会長選挙の方法について、二代目神田山陽が異議を唱えたことにより、山陽一門は一部を除いて講談協会を離脱し「日本講談協会」を設立。山陽は門人の去就を個人の判断に委ねたため、門人の一部は講談協会に残留した(「第二次講談協会分裂」)[5]。これ以降、再び東京講談界は二団体に分立し、現在に至っている。 講談の定席は本牧亭と永谷商事の演芸場があったが、本牧亭は閉場(のちに破産)。両団体とも現在は永谷商事が所有するお江戸上野広小路亭とお江戸日本橋亭、新宿永谷ホールを拠点として定席興行を行っている。このうち、日本講談協会は「落語芸術協会」と提携しており、両協会に所属する講談師も多く、この場合は芸協の定席興行にも出演するほか、前座修業も芸協の寄席で行っている[注釈 3](例外あり)。
歴史
現代の講談
東京の講談