講談
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できればプロの講談師が釈台の前に座り張り扇でそれを叩いて講談をしている時の写真を数枚。

もし可能ならプロが講談をしている動画。長尺である必要はない。数分程度でもよく、それが難しいなら数十秒程度でもよい。
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講談(こうだん)とは、演者が高座におかれた釈台(しゃくだい)と呼ばれる小さな机の前に座り、張り扇(はりおうぎ)でそれを叩いて調子を取りつつ、軍記物軍記読み)や政談など主に歴史にちなんだ読み物を観衆に対して読み上げる日本の伝統芸能のひとつ。
歴史

起源は戦国時代御伽衆(おとぎしゅう)であると言われているが、寄席演芸としての講談の原型は、江戸時代大道芸のひとつである辻講釈(つじこうしゃく、または大道講釈)に求めることができる。辻講釈は太平記などの軍記物を注釈を加えつつ調子を付けて語るものである。

宝永年間には公許の常設小屋で上演されるようになり、「講釈」と呼ばれるようになった。文政年間には話芸としてほぼ確立し、幾つかの流派が誕生した。『守貞謾稿』の記述によると、興業は昼席が午の刻半ば?申の刻まで、夜席は六つ半?四つ時までが一般的で、料金は通常48文(未熟な演者は36文、子どもは半額)だったという。講談の享受層は幅広く、江戸時代に広く読まれた実録本との影響関係が見られるほか[1]、講釈での人気演目が歌舞伎人形浄瑠璃化されることもあった。

江戸末期から明治時代にかけて、講釈は全盛期を迎え、明治時代以降、講釈は講談と呼ばれるようになった。「泥棒伯圓」とあだ名された二代目松林伯圓が出、明治政府より教導職を賜るのもそのころである。明治末期には立川文庫など紙媒体に講談の内容を元とした「書き講談」(講談本)が人気を呼んだ(その出版社の中に、講談社がある。講談本の成功ですぐに大手出版社になった)。また、新聞や雑誌に講談が連載されるようにもなった。しかし、明治末に浪花節、昭和に入っての漫才など他の人気大衆芸能の誕生、大衆メディアの発達など(「講談倶楽部」の臨時増刊「浪花節十八番」刊行に関するトラブル[注釈 1]に象徴される)に追いつけず、次第に衰微していった。第二次大戦後はGHQにより、仇討ちや忠孝ものが上演を禁止され一時は大きな影響を受けた。その後テレビの普及によって、講談はますます衰退した。
現代の講談
東京の講談

戦後、東京の講談界にしばしば協会の分裂騒動が発生していることも衰退の背景にあった。

1965年に「講談組合」のうち、五代目宝井馬琴五代目神田伯山が脱退し「東京講談組合」を設立した(1967年に復帰)。1968年には「講談協会」に改組されているが、2年後の1970年に五代目馬琴は再び協会から離脱した。

1973年、田辺一鶴一門の女流講談師・田辺夕鶴(後に二代目神田山陽門下に移り、天の夕づるに改名)が始めた「ポルノ講談」[2]を巡って協会内で意見が対立し、さらに山陽会長の運営体制に対する不満も重なる形で、講談協会の解散動議に発展。賛成派多数により協会解散が可決され、山陽会長体制に否定的だった二代目神田ろ山六代目小金井芦州神田伯治六代目一龍斎貞水五代目宝井琴鶴ら合議制による「講談組合」と、神田山陽一門・田辺一鶴一門らの「日本講談協会」に分裂した(「第一次講談協会分裂」)[注釈 2]。さらに翌1974年には「講談組合」から琴鶴・五代目宝井琴梅二代目宝井琴桜六代目一龍斎貞丈門下の一龍斎貞正(後の五代目一龍斎貞花)が離脱し、先に「講談協会」を離脱していた琴鶴らの師匠の五代目馬琴と合流し「東京講談会」を結成したため、三団体が分裂する状況となった。その後、芦州が「講談組合」を、馬琴が「東京講談会」をそれぞれ離脱するなど、東京の講談界はますます混迷状態となっていた[3][4][5]

この状況を憂いた日本演芸家連合理事長の四代目三遊亭金馬落語協会、後の二代目三遊亭金翁)と副理事長の春風亭柳昇落語芸術協会)が斡旋し、1980年に東京講談界は再び一本化し「講談協会」の発足に至った(ただし、神田伯治・二代目悟道軒圓玉七代目一龍斎貞山は不参加)。

しかし、1991年に協会の会長選挙の方法について、二代目神田山陽が異議を唱えたことにより、山陽一門は一部を除いて講談協会を離脱し「日本講談協会」を設立。山陽は門人の去就を個人の判断に委ねたため、門人の一部は講談協会に残留した(「第二次講談協会分裂」)[5]。これ以降、再び東京講談界は二団体に分立し、現在に至っている。

講談の定席は本牧亭永谷商事の演芸場があったが、本牧亭は閉場(のちに破産)。両団体とも現在は永谷商事が所有するお江戸上野広小路亭お江戸日本橋亭新宿永谷ホールを拠点として定席興行を行っている。このうち、日本講談協会は「落語芸術協会」と提携しており、両協会に所属する講談師も多く、この場合は芸協の定席興行にも出演するほか、前座修業も芸協の寄席で行っている[注釈 3](例外あり)。また、講談協会も3人と少数ながら「落語協会」にも所属する講談師がおり、この場合は落語協会の定席興行にも出演するほか、落語協会未所属の協会員であっても稀に落語協会の定席の顔付けに加わる事もある。他には浅草木馬亭で行われる「日本浪曲協会」の定席興行にも、両協会から毎回1名程度が賛助出演している。

女性の進出が目覚ましい分野であり、近年の若手講談師はむしろ女性が中心となっている[6]。特に若手の入門者は女性が圧倒的に多く、講談協会では1988年から2012年まで、男性真打が一人も誕生しなかったほどである[7]

その後、2002年に六代目一龍斎貞水、2019年に三代目神田松鯉がそれぞれ講談師の重要無形文化財保持者(いわゆる「人間国宝」)となり、さらに三代目松鯉の弟子である六代目神田伯山が台頭し、メディア出演などで知名度を上げたことで、男性の入門希望者も散見されるなど、講談の人気も徐々に取り戻しつつある[8]

講談協会(宝井琴梅会長)

日本講談協会(神田紅会長)

上方の講談

上方(関西)の講談は「軍談」と「神道講釈」の二つの流れが融合したもので、大正時代に立川文庫の生みの親である玉田玉秀斎などの玉田派が上方講談界を席巻した。その後、玉田、松月堂など上方講談の一門は昭和初期で命脈が尽き、本来の上方講談の系譜はいったん絶えたと言える。こうして、本来は江戸の屋号である旭堂のみが残り、二代目南陵の奮闘もあって、上方講談唯一の屋号として今日まで継承されている[注釈 4]

戦後になると、上方落語以上に衰退著しい上方講談は、江戸講談の系譜に連なる二代目旭堂南陵と二代目旭堂小南陵(後の三代目旭堂南陵)父子のみの状態となった。1965年に二代目が亡くなった後は三代目の孤軍奮闘が長く続いた。現在も数は多くはないが、三代目南陵の弟子たちにより地道な活動が続けられ当面の危機は脱した。「上方講談を聞く会」「天満講談席」「トリイ講談席」「日本一亭南陵会」など定期講談席も続けられている。

その後、三代目南陵の弟子間で訴訟にまで発展する内紛があり、四代目南陵(前名:三代目小南陵・元参議院議員)一門は「上方講談協会」を除名され「大阪講談協会」を結成した。

2017年、さらに旭堂南鱗以下の旧三代目南陵一門が離脱し「なみはや講談協会」を設立。「上方講談協会」は旭堂南左衛門一門のみとなり、上方の講談界は少人数ながら三団体となる。

上方講談協会(会長旭堂南左衛門

大阪講談協会(会長四代目旭堂南陵→2020年7月死去により会長空席)

なみはや講談協会(名誉会長旭堂南鱗、会長旭堂南華

題材

江戸時代以降、講談の主な材料源は実録本だったとされる[10]。演目は、軍談・金襖物(評定物)・捌き物・仇討物・白浪物・三尺物などがある他、明治時代には政治講談・新聞講談・文芸講談などの新演目が起こった[10]


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