諸葛緒
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諸葛 緒(しょかつ しょ、生没年不詳)は、中国三国時代から西晋の武将。・西晋に仕えた。本貫徐州琅邪郡陽都県[1][2]。子は諸葛沖。
生涯

正元2年(255年)、魏の泰山太守の官にあった。?丘倹の反乱に際し、ケ艾の指示で黎漿へ向かい、孫峻の増援を防いだ[3]

景元4年(263年)、雍州刺史の官にあり、司馬昭から鍾会・ケ艾と共に、蜀漢攻略の指揮官に任命される。

姜維の退路を断つべく橋頭を押さえたが、陽動作戦に嵌り退却を許した[3]。白水で鍾会と合流し共に剣閣へ向かったが、権力の独占を狙う鍾会から「諸葛緒は怖気づいて前進しない」と密告され、囚人護送車で召還された。諸葛緒の軍勢は鍾会に吸収された[4]

その後、太常の官に就いた。晋の司馬炎禅譲を受けて帝位に即き、母の王元姫皇太后となると、その宮殿・崇化宮の衛尉に任じられた[5]
一族

息子の諸葛沖は廷尉を務めた。その娘の諸葛婉は司馬炎の夫人(三妃の一つ)となり、親兄弟らと共に房玄齢等の『晋書』后妃伝に記述される。諸葛沖の息子の諸葛銓[6]・諸葛?も高官に昇った。
出典

陳寿三国志』巻28 魏書 鍾会伝

脚注^ 『晋書』記載、諸葛婉の本籍地。
^ 諸葛亮諸葛誕らと同姓・同郷だが、連枝関係は不明。
^ a b 『三国志』魏書 ケ艾伝
^ 『晋書』太祖文帝紀は、諸葛緒の逮捕等については触れず、「諸葛緒は祁山を通って武街に進軍し、姜維の帰路を絶った」と記すに留める。
^ 『晋書』文明王皇后伝より。鍾会伝注『百官名』では諸葛緒の官位を崇礼衛尉とする。
^ 鍾会伝注『百官名』では諸葛詮とする。


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