諸葛玄
[Wikipedia|▼Menu]

諸葛玄
後漢
豫章太守
出生生年不詳
徐州琅邪郡陽都県
死去建安2年(197年
揚州豫章郡西城(現・江西省撫州市崇仁県
?音Zh?g? Xuan
主君袁術劉表
テンプレートを表示

諸葛 玄(しょかつ げん、? - 197年)は、中国後漢末期の人物。徐州琅邪郡陽都県(現在の山東省臨沂市沂南県)の諸葛氏の一族。兄は諸葛珪。甥は諸葛瑾諸葛亮諸葛均。族子は諸葛誕。諸葛一族の頭領的存在でもあった。
事跡

兄の諸葛珪が急死したため、まだ幼かった兄の子の諸葛亮・諸葛均を引き取り育てるが、この頃、朝廷を無視し自ら天子を名乗る袁術によって、豫章太守に任命された。実直な彼はその命令に応じ赴いた。だが朝廷は改めて、豫章太守に朱皓(字は文明、朱儁の子)を任じて諸葛玄と代わらせようとした。困った諸葛玄は、以前から荊州劉表と旧知の仲だったので、諸葛亮らを引き連れて劉表を頼ったが、後に亡くなった[1]

一方、別の説では、豫章太守であった周術(述)が病没したため、諸葛玄は劉表によって豫章太守に任ぜられて昇進し、豫章郡南昌県に駐屯した。朝廷は周術の死を聞いて、朱皓を豫章太守として派遣し、劉?に朱皓の支援を命じた。案の定、諸葛玄は板挟みに遭い、遂には兵を用いた争いにまで発展してしまった。その結果、諸葛玄が敗走して西城まで逃亡し、代わって朱皓が南昌に赴任することになった。197年正月?融に煽動された西城の住民が反乱を起こすと、諸葛玄は巻き込まれて戦死し、その首を劉?に届けられた。そのため拠り所を失った諸葛亮兄弟は、荊州に流れることになったという[2]
家系図

諸葛豊

                                 
                               
?  

    

             
        
諸葛珪諸葛玄?徳公?  

                               
                         
諸葛瑾諸葛亮諸葛均女 ?山民?統?林諸葛誕
 
                    
           
諸葛恪諸葛喬諸葛融諸葛瞻諸葛懐諸葛望?宏諸葛?

             
        
諸葛攀諸葛尚諸葛京諸葛質諸葛恢

  

諸葛顕


脚註^蜀書』諸葛亮伝による。
^ 『献帝春秋』および『呉書』劉?伝による。だが、本伝の『蜀書』諸葛亮伝と内容が大きく異なっている。

参考文献

三国志

後漢書


記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:7036 Bytes
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef