諸葛亮
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「孔明」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「孔明 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

諸葛亮
代の『宮殿蔵画本』に載る諸葛亮の絵
蜀漢
丞相録尚書事益州
出生光和4年(181年
琅邪郡陽都県[1]
死去建興12年(234年8月
五丈原
?音Zh?g? Liang
孔明
諡号忠武侯
別名伏龍、臥龍(渾名)
主君劉備劉禅
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諸葛 亮
各種表記
繁体字:諸葛 亮
簡体字:?葛 亮
?音:Zh?g? Liang
ラテン字:Chuko Liang
和名表記:しょかつ りょう
発音転記:ジューガー・リャン
英語名:Zhuge Liang
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諸葛 亮(しょかつ りょう、.mw-parser-output .pinyin{font-family:system-ui,"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}.mw-parser-output .jyutping{font-family:"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}?音: Zh?g? Liang ジューガー・リャン、181年 - 234年8月末)は、中国後漢末期から三国時代蜀漢政治家武将軍師)。亮はは孔明(こうめい)。

司隷校尉諸葛豊の子孫。泰山郡諸葛珪の子。は忠武侯(ちゅうぶこう)。蜀漢の建国者である劉備の創業を助け、その子の劉禅丞相としてよく補佐した。伏龍、臥龍とも呼ばれる。今も成都南陽には諸葛亮を祀る武侯祠がある。

妻は黄夫人。子は蜀漢に仕え綿竹で戦死した諸葛瞻。孫には同じく蜀漢に仕え父と共に綿竹で戦死した諸葛尚や、西晋江州刺史になった諸葛京がいる。親族として叔父の豫章太守諸葛玄、同母兄でに仕えた諸葛瑾とその息子の諸葛恪、同母弟で同じく蜀漢に仕えた諸葛均などが知られる。一族には、の武将として仕えた諸葛誕などがいる。
生涯
書生時代

徐州琅邪郡陽都県(現在の山東省臨沂市沂南県)が出生地[1]本貫も同地である[2]。身長は8尺(後漢の頃の1尺は23cmで8尺は184cm、魏・西晋の頃の1尺は24.1cmで8尺は192.8cmになる)。その祖先は前漢元帝の時の司隷校尉の諸葛豊。父の諸葛珪は泰山郡の丞(郡の副長官)を務めた人物であるが、諸葛亮が幼い時に死去している。年の離れた兄には呉に仕えた諸葛瑾(異母兄説がある)、弟には同じく蜀漢に仕えた諸葛均、他にがいる。

まだ幼い頃、徐州から弟の諸葛均と共に叔父の諸葛玄に連れられ南方へ移住する。この時の行き先について『三国志』本伝では、叔父の諸葛玄は袁術の命令を受けて豫章太守に任命されるが、後漢の朝廷からは朱皓が豫章太守として派遣され、その後、劉表の元に身を寄せたとなっている。これに対して裴松之注に引く『献帝春秋』では、朝廷が任命した豫章太守の周術が病死したので劉表が代わりに諸葛玄を任命したが、朝廷からは朱皓が送り込まれ、朱皓は劉?の力を借りて諸葛玄を追い出し、諸葛玄は逃れたが建安2年(197年)に民衆の反乱に遭って殺され、首を劉?に送られたとなっている[3]

その後、諸葛亮は荊州で弟と共に晴耕雨読の生活に入り、好んで『梁父吟』を歌っていたという。この時期には自らを管仲楽毅に比していたが、当時の人間でこれを認める者はほとんどおらず、親友の崔州平(太尉崔烈の子、崔均の弟)や徐庶だけがそれを認めていたという。この時期の他の学友に石韜孟建がいる。また、この時期に地元の名士の黄承彦を娶ったようである。これは裴松之注に引く『襄陽記』に見える話で、黄承彦は「私の娘は色が黒くて醜いが、才能は君に娶わせるに足る」と言い、諸葛亮はこれを受け入れた。周囲ではこれを笑って「孔明の嫁選びを真似てはいけない」と囃し立てたという。これ以降、不器量の娘を進んで選ぶことを「孔明の嫁選び」と呼ぶようになった[4]

妻の父の黄承彦の妻は襄陽の豪族蔡瑁の長姉であり、蔡瑁の次姉は劉表の妻であるため、蔡瑁・劉表は義理の叔父に当たる。また、諸葛亮の長姉は房陵太守?祺の妻[5]、次姉は?徳公の息子の妻であり、?徳公の甥の?統も親戚である。
三顧の礼の時代に描かれた「三顧の礼」の様子

華北ではこの頃、建安5年(200年)に曹操袁紹を打ち破って覇権を手中にし、南進の機会を窺っていた。劉備は袁紹の陣営を離れて劉表を頼り、荊州北部の新野(現在の河南省南陽市新野県)に居城を貰っていた。明の時代に描かれた「孔明の出廬」の様子

諸葛亮は前述のように晴耕雨読の日々を送っていたが、友人の徐庶が劉備の下に出入りして、諸葛亮のことを劉備に話した[注釈 1]。人材を求める劉備は徐庶に諸葛亮を連れてきてくれるように頼んだが、徐庶は「諸葛亮は私が呼んだくらいで来るような人物ではない」と言ったため、劉備は3度諸葛亮の家に足を運び(207年冬?208年春)、やっと迎えることができた[注釈 2]。これが「三顧の礼」である。この時、諸葛亮は劉備に対していわゆる「天下三分の計」を故事に習って示し、「曹操・孫権と当たることを避けて、まずは荊州・益州を領有し、その後に天下を争うべきだ」と勧めた。これを聞いた劉備は諸葛亮の見識を認めて左将軍掾(主任)に起用し、諸葛亮も劉備に仕えることを承諾した。これを「孔明の出廬」という。諸葛亮は劉備軍加入後、真っ先に曹操の侵略を抑えることを最優先とした。孔明加入前の劉備軍は統制が弱かったが、孔明が陣頭指揮に立ってからは規律を第一とし、真っ先に曹操の攻撃を抑えて堅く守り切り、その間に颯爽と勢力を固めていくことになる。
赤壁の戦い

建安13年(208年)、劉表陣営では次男の劉jが後継となることがほとんど決定的となり、長男の劉gは命すら危ぶまれていた。劉gは自らの命を救う策を諸葛亮に聞こうとしていたが、諸葛亮の方では劉表一家の内輪もめに劉備共々巻き込まれることを恐れて、これに近寄らなかった。そこで劉gは一計を案じて高楼の上に諸葛亮を連れ出し、登った後で梯子を取り外して、諸葛亮に助言を求めた。

観念した諸葛亮は春秋時代文公の故事を引いて、劉gに外に出て身の安全を図るよう薦めた。劉gはこれに従い、その頃ちょうど太守の黄祖が孫権に殺されたため空いていた江夏(現在の湖北省東部)へ赴任することにした。劉gの兵力は後に劉備たちが曹操に追い散らされたときに貴重な援軍となった。

同年、劉表が死去。その後を予定通り劉jが継ぐ。諸葛亮は劉備に「荊州を取れば曹操に対抗できる」と勧めたが、劉備はこれに難色を示す。まもなく曹操が南下を開始すると、劉jはすぐさま降伏した。劉備は曹操の軍に追いつかれながらも、手勢を連れて夏口へ逃れた(長坂の戦い)。

孫権陣営は情勢観察のため、劉表の二人の息子への弔問を名目に魯粛を派遣してきていた。諸葛亮は劉備に孫権からの救援を求めることを進言し、魯粛と共に孫権の下へ赴いた。曹操との交戦と劉備陣営との同盟を孫権に説き、孫権から「劉備殿はどうしてあくまでも曹操に仕えないのか」と問われ、諸葛亮は「田横は斉の壮士に過ぎなかったのに、なおも義を守って屈辱を受けませんでした。まして我が主・劉玄徳は王室の後裔であり、その英才は世に卓絶しております。


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