諸生党
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出典検索?: "諸生党" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2016年5月)

諸生党(しょせいとう)は、水戸藩の保守・門閥派。幕末に家老市川弘美(三左衛門)らを中心に、藩内で改革派・天狗党と激しい抗争を繰り広げた。市川派あるいは諸生派とも呼ばれた。当時水戸城三ノ丸にあった藩校弘道館の諸生(書生)が多かったためこの名がある。
改革派との権力抗争水戸藩 弘道館

文政12年(1829年)に水戸藩主に就任した徳川斉昭はそれまでの門閥にこだわらず、自分の擁立に功があった下士層から藤田東湖武田耕雲斎らの人材を多く登用し藩政改革に着手した。これに反発する門閥派が諸生党の起こりである。彼らは斉昭や改革派からの権力奪還の機会を伺っていたが、弘化元年(1844年)に斉昭が幕命で強制隠居させられ家督を嫡男の徳川慶篤に譲り謹慎を命じられると、年少の慶篤を補佐して藩政の中心となる。しかし斉昭は謹慎が解除されるや、慶篤を後見して藩政に復帰したため、門閥派は再び勢力を失ったかに見えた。安政5年(1858年)に大老井伊直弼日米修好通商条約を独断調印すると、これを批判した斉昭は永蟄居を命じられる。これに対し水戸藩改革派が朝廷に運動し戊午の密勅が下されると、幕府はその返納を要求、密勅問題を巡って水戸藩内で返納を主張する門閥派が復活、これに反対する改革派急進派(激派)との対立が激化した。幕府の臣下であるはずの水戸藩へ朝廷から直接勅書が渡されたことにより威信を失墜した幕府は水戸藩改革派を断罪(安政の大獄)、それに反発した激派が桜田門外の変坂下門外の変などを起こしてさらに弾圧され、改革派は力を失い、幕府に恭順する門閥派が藩内で勢力を強めた。
天狗党の乱討伐

元治元年(1864年)3月、改革派激派の藤田小四郎らが筑波山で挙兵すると(天狗党の乱)、危機感を抱いた門閥派の市川三左衛門佐藤信近(図書)、朝比奈泰尚(弥太郎)、鈴木重棟(石見守)らが改革派の排撃を始めた。7月、幕府が天狗党追討令を出し、常陸、下野の諸藩に出兵を命じると、市川らは弘道館諸生を中心とする部隊を組織して天狗党の討伐を開始した。ここで諸生の党、すなわち諸生党が反天狗党の総称となり、水戸藩領内各地で士民が諸生党側と天狗党側に分かれての抗争が始まった。

諸生党軍は下妻近くの多宝院で藤田ら天狗党軍の夜襲を受けるなどして敗走。水戸へ逃げ帰ると水戸城を占拠し、天狗党に加わっている者の一族の屋敷に放火し、残っていた家人を投獄した。これを聞いた天狗党が水戸城に迫ってくると、諸生党は城下で迎撃、勝利した。この内乱鎮静のため、京都にいる藩主慶篤の名代として宍戸藩松平頼徳が幕命により水戸へ下向する。しかし、一行の中に武田耕雲斎ら改革派の要人が加わっており、改革派の士民も多く同行していたため、改革派に主導権を握られることを恐れた市川らは戦備を整えて一行の入城を拒絶。頼徳は入城させるよう市川と交渉するが実らず、戦闘が終わる気配はなかった。やむなく頼徳は那珂湊に退き天狗党と合流する。幕命を受けた頼徳を敵に回したことで叛逆の罪に問われることを防ぐため、諸生党は幕府に働きかけ天狗党と共に頼徳一行も討伐対象とすることに成功し、水戸城下で戦闘を繰り返した。10月、諸生党は田沼意尊を将とする幕府の討伐軍の応援を得て那珂湊を包囲し、ついに天狗党を敗走させた。一橋慶喜の仲介を頼りに天狗党が京都へ去り、諸生党が藩政を掌握すると天狗党やその協力者の弾圧を進めた。樋口一葉が師事した中島歌子も武田耕雲斎と国事に奔走した夫(林忠右衛門)が下野国部田野原で戦死するや、これに連座し投獄されたが、数ヶ月後に釈放された。

12月、藤田ら天狗党一行が越前敦賀で討伐軍に降伏し、その多くが処刑され乱は鎮圧された。諸生党は藤田小四郎や武田耕雲斎らの首を水戸に移して、罪人として晒し、乱に加担した者の家族を処刑した。
戊辰戦争以後

慶応4年1月(1868年2月)、戊辰戦争が始まると、諸生党に対する追討命令が朝廷から出された。これにより水戸藩に戻った本圀寺党をはじめとする天狗党の残党と諸生党の間で再度抗争が起こり、今度は賊軍となった諸生党はたちまち勢力を失い、市川らは水戸を脱して会津へ向かった。武田金次郎ら天狗党が藩内での権力を掌握すると、諸生党やその家族に対して激しい報復が行われ、各地で多くの諸生党士民が処刑されたり投獄されたりした。

水戸を脱した市川ら約500名の諸生党軍は「市川勢」等と称され、奥羽越列藩同盟の傘下に入って新政府軍との戦闘に加わることとなる。市川らはまず会津城下を目指すが、会津藩から越後方面の防衛を依頼されて柏崎に向かう。


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