諸王
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王(おう、:Prince)は、皇族身位または称号の一つ。または、王の身位を授けられた皇族のこと。敬称は殿下
現在の王
皇室典範第五条  
皇后太皇太后皇太后親王親王妃内親王、王、王妃及び女王を皇族とする。
同第六条  
嫡出皇子及び嫡男系嫡出の皇孫は、男を親王、女を内親王とし、三世以下の嫡男系嫡出の子孫は、男を王、女を女王とする。
同第七条  
王が皇位を継承したときは、その兄弟姉妹たる王及び女王は、特にこれを親王及び内親王とする。

称号:王


敬称殿下
His Imperial Highness the Prince

現行の皇室典範では、歴代の天皇の直系卑属の男系男子の内、三親等以上離れた者に付与される。これに対して同様の女性皇族は、女王と称する。また、王の妃を王妃という。

王は次のいずれかに当てはまる場合、親王に身位が変更される。
皇位の継承によって嫡出の皇子または嫡男系嫡出の皇孫となった場合。(皇室典範第6条)

王の兄弟たる王が皇位を継承した場合。(皇室典範第7条)


現在の王…不在

栄典…皇族身位令に準じ、成年となったときに桐花大綬章を授与される(2003年平成15年)11月2日までに成年に達した場合は勲一等旭日桐花大綬章であった)。

英語表記…親王と王の区別無く Prince が用いられる。

       

  天皇 

               
          
  天皇 一世親王 一世内親王 

                 
     
  嫡流
(正統) 二世親王 二世内親王 

                
     
      三世王 三世女王 

               

      (永世にわたり王)     


歴史
律令制以前

「王」の初出は、古事記において、応神天皇以降の天皇の男系子孫は、世数、男女を問わず、諱の下に「王」と表記された(よみは「おおきみ」)。その他の文献には、女性を「女王」とした他、「命」を用いる例、諱のみの例もあって一定せず、表記に揺れがある。やがて、一世子女の場合は「皇子」(「皇女」)と表記されるようになり、「王」(「女王」)は二世孫以下を指すようになった[1]

一方、世数が下った王は、「王」にかわり「公」(きみ)を用い、同時に新しい氏を名乗る例があり、臣籍降下の原型とされる[2]
律令における規定

大宝令養老令において、皇室に関わる成文法が定められ、称号の整理が行われる。この時、天皇の兄弟と一世子女が親王、二世孫以下は王と定められた(内親王・女王は、女性であることを明示しない場合は、親王・王と称されることもあった)[3]。また、臣籍降下の目安も定められており、皇親(天皇の親族の意、皇族とほぼ同義)の扱いを受けるのは四世王までで、五世孫は王の称号は認められるが皇親からは外れ、六世孫で臣籍降下、とされた(四世以内で臣籍降下した例もあった)[4]

       

  天皇 

               
          
  天皇 一世親王 一世内親王 

                 
     
  嫡流
(正統) 二世王 二世女王 

                
     
      三世王 三世女王 

                
     
      四世王
(ここまで皇親) 四世女王
(ここまで皇親) 

                
     
      五世王
(皇親外) 五世女王
(皇親外) 

               

      六世孫
(臣籍降下)     

その後、皇親の範囲に変化が加えられる。慶雲3年(706年)2月16日、文武天皇の勅令により、皇親の範囲が五世孫まで広げられるとともに、六世孫以下でも、五世王の「承嫡者」(嫡男)は代々王の称号を許されることになった。更に、天平元年(729年)8月5日、格により、六世孫・七世孫であっても、生母が二世女王[注釈 1]である場合は、承嫡者以外も全員皇親とされた[5]

その後、皇親の人数が増加したことにより、不良行為をなすものが増えたことから、延暦17年(798年)閏5月23日、桓武天皇の勅命により、皇親の範囲を元へ戻す。しかし、六世孫以下が王の称号を名乗ることは引き続き認められた[5]
初叙の位階(蔭位の制


二世王…従四位下

三世王・四世王・五世王…従五位下

六世王(嫡子)…正六位上

六紫衣王(庶子)…正六位下

時服料

満12歳に達した翌年から、無位である場合に限り、支給された。
王氏の成立

上述のように、天皇の男系五世孫までが王とされたが、平安時代初期にかけて、子女の多い天皇が続いたことにより、王の人数が激増する。正確な人数は不明であるが、上述の律令規定に基づいた初叙の定員を超えた順番待ちの者への時服料の支給の対象が、最大で五・六百人に及ぶこともあった(貞観12年(870年)に、同年の需給人数である429人を定数とする)。

これを憂慮した朝廷は、一部の一世親王に至るまで、臣籍降下を積極的に進め、皇親の人数の抑制を図る。これにより、血縁上は五世孫以内でありながら、臣籍降下して王の称号を名乗らないものが増える[6]

また、平安時代中期からは逆に、親王/内親王の称号が、出生によって機械的に付与されるのではなく、出生時は王/女王であり、天皇の宣旨によって、親王/内親王の称号が授けられるようになった(親王宣下)。これによって、一世の王/女王も登場するようになる[7]

これらの運用上の変化を経て、平安時代中期になると、王の人数は抑制される。しかし今度は、人数が極端に減少し、伊勢奉幣の使王など、王の関与が不可欠な朝儀に支障が生じるようになる[8]。これへの対策として、皇親を遠く離れて王号のみ世襲していた血統の者が、使王の役を代々務めるようになる。代表が、花山天皇の末裔である白川伯王家で、普段は臣籍でありながら、神事に与かる時に限って王の称号を名乗った[9]
宮家の成立と王の減少

鎌倉時代以降、皇室の所領である荘園の一部を特定の親王が受け継ぎ、世襲することによって、天皇から経済的に独立した、後の宮家の原型が発生する。世襲されることにより、皇親に属する二世以下の王が再び発生するようになったが、これらの王は、出生時には諱は与えられず、「?(の)宮」という称号で呼ばれる慣例が定着する。彼らは、宮家の継承又は出家(法親王)の際に、親王宣下が行われるとともに諱が与えられるようになった。そのため、同時代的に「王」の称号を使うのは、上述の白川伯王家のような家の者が一時的に名乗るにとどまり、現役の皇室の者の中には「王」は不在の状態が長く続いた[10]
明治?昭和前期

明治維新の最中の慶応4年(1868年)閏4月15日、親王、王、皇親に関する法制が、改めて律令時代の規定に戻され、一世が親王、二世から四世が王、皇親は四世まで、となる。その上で、江戸時代から続く四世襲親王家伏見宮桂宮有栖川宮閑院宮)は従来通り、親王宣下を行ったうえで世襲、それ以外の、維新前後に還俗した親王の名乗った宮号は一代限りとし、その子は臣籍降下することとされた。しかしその後、新立の宮号も、男子が親王宣下を受けた上で継承されるなど、実質的に世襲親王家が増加する傾向を見せた。明治22年(1889年)1月15日、皇室典範制定によって改めて整理が行われ、四世孫までは親王、五世孫以下は永世にわたり王、と定められ、親王宣下の制度廃止(既に宣下を受けたものは終身有効)により、王号を名乗るものが増加した。その後、皇族の増加を受けて、大正9年(1920年)5月19日に臣籍降下の準則が定められ、五世王から八世王は嫡男以外、九世王は嫡男含め全員が臣籍降下することとなった。

       

  天皇 

               
          
  天皇 一世親王 一世内親王
(臣籍降嫁) 

                 


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