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諸橋 轍次
人物情報
生誕 (1883-06-04) 1883年6月4日
日本・新潟県南蒲原郡
死没1982年12月8日(1982-12-08)(99歳)
出身校東京高等師範学校
学問
研究分野漢文学
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諸橋 轍次(もろはし てつじ、1883年〈明治16年〉6月4日[1] - 1982年〈昭和57年〉12月8日[1])は、日本の漢学者・漢字学者。号は止軒[注釈 1]。学位は、文学博士。東京文理科大学名誉教授。都留短期大学学長・都留文科大学初代学長[注釈 2]を歴任。大著『大漢和辞典』、『広漢和辞典』(各・大修館書店刊)の編者代表として知られる。直江兼続の子孫を称した。 新潟県南蒲原郡庭月村(後に四ツ沢村→森町村→下田村、現在の三条市庭月)に生まれた[1]。1908年に東京高等師範学校を卒業[2]後、漢学の教員として同校に勤める。青年時代には中国に留学したが、このときに満足できる辞書がなかったことが、後の『大漢和辞典』の製作に繋がっていった[注釈 3]。 1925年、大修館の鈴木一平が諸橋のもとを訪れ、全漢字を網羅した「漢和辞典」の構想を持ちかけられる。この『大漢和辞典』の本格的な製作は1929年から始まった。 1929年1月に文学博士を授与される[3]。博士論文の題は「儒学の目的と宋儒(慶暦至慶元百六十年間)の活動」[4]。1930年、東京文理科大学教授[1]となる。 1943年、『大漢和辞典』第1巻が完成し、これにより翌年に朝日賞を受賞した。しかし1945年、東京大空襲で大修館が罹災し、組み上がっていた印刷用の版が全て溶けてしまったため、太平洋戦争後、完成していた巻と校正刷りをもとに再スタートを切った。 1946年、諸橋は長年の無理が祟って右目を失明、左目も明暗がやっとわかる程度にまで悪化し、1955年に右目の開眼手術を受けた。 1948年、國學院大學文学部教授となるも翌年退任した。1957年、都留文科短期大学学長に就任し、2年後に退任した。1960年、短期大学の四年制大学への移行と同時に初代学長として就任、同職を1964年まで務めた。 1960年、『大漢和辞典』全13巻が完成した[1]。この功績により1965年、文化勲章を受章した[1]。『大漢和辞典』は数十年にわたり修訂し刊行された[注釈 4]。 1972年に『中国古典名言事典』(講談社、のち講談社学術文庫、各・多数重版)、1975年-1977年に『著作集』(全10巻 大修館書店)が刊行された。 1982年11月、大漢和の縮小版『広漢和辞典』を刊行し、同年の12月8日に99歳で大往生した。 1962年、下田村名誉村民[1]。1992年、三条市は諸橋轍次記念館を開設したほか、三条市名誉市民として顕彰している[1]。2018年9月30日には第1回の「諸橋轍次記念漢字文化理解力検定」実施を公表している[5]。
人物・生涯
顕彰
受賞・栄典
位階
1945年(昭和20年)10月30日 - 正三位[6]
勲章
1941年(昭和16年)11月11日 - 勲二等瑞宝章[7]
1976年:勲一等瑞宝章を受章[1]。
家族・親族
建部遯吾(社会学者)は従兄にあたる。(諸橋轍次の父安平の兄慶三郎の子が建部遯吾)
三男の諸橋晋六は静嘉堂文庫理事長のほか三菱商事社長・会長も務めた。
上杉景勝の重臣、直江兼続の子孫を称しているが、真偽は不明である。
著作諸橋轍次記念館(新潟県三条市庭月)
単著
『詩経研究』目黒書店、1912年11月。
『儒学の目的と宋儒慶暦至慶元百六十年間の活動』大修館書店、1929年10月。
『名及び名実論』東京文理科大学〈東京文理科大学文科紀要 第4巻〉、1931年9月。
『経史八論』関書院、1933年1月。
『新論語講話』章華社、1934年6月。
『経学研究序説』目黒書店、1936年10月。
『論語人物考』春陽堂書店〈論語講座 研究篇〉、1937年5月。
『本を努めよ』目黒書店、1938年10月。