諸橋健一
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諸橋 健一(もろはし けんいち、1942年[1] - 2024年)は、日本の実業家ムービーテレビジョンの創設者[1]日本大学芸術学部放送学科[1]
略歴

大学の級友に秘田余四郎の弟がいたことから秘田の会社である映画配給会社、日本テレピックスでアルバイトを始める[2]。1965年に大学を卒業した後は同社に入社するも[1][2]、秘田の死去により倒産[2]。同社は秘田の弟により東京放映として再興され諸橋も参加する[2]

1967年、東京放映の事業が山田かつらの卸売りが中心になったことからニュージャパンフィルムに移籍し、ヨーロッパの映画の配給に関わる[3][1]

1973年、テレビ局の人間から、CM制作会社のビデオフィルムが映画部を立ち上げるので面倒を見て欲しいと頼まれ、同社に移籍[1][2]

移籍した理由として諸橋は、アメリカ映画の勃興の影響でヨーロッパの映画産業に陰りを感じていたが、ニュージャパンフィルムの親会社である東宝東和は当時アメリカ映画を扱っていなかったことから、会社を移ってアメリカ映画を取り扱うことを決めたのだと言う[3]

諸橋に話が行ったのは、ビデオフィルムの親会社であるビデオプロモーション社長の藤田潔が映画ビジネスへの参入を考えていることを知ったテレビ局の人間が外国映画の品定めや映画会社と交渉できる人間として藤田に諸橋を紹介したのだという[4]

同社に入社して2年ほど経った頃、諸橋が入社する前にビデオプロモーションがテレビ配給権を取得した『ミクロの決死圏』のフィルムがアメリカから送られてこないという事件が起きる[5][6]。エージェントがビデオフィルム以外にも東映、さらにもう1社とも配給契約を結んで3社分の契約金を使い込んでいたことが判明[5][6]20世紀フォックス側はエージェントとの契約を破棄し、改めてビデオフィルムと契約を結ぶと言う形で話はまとまった[7][6]

そのトラブルを解決する為に渡米した際、20世紀フォックス側の通訳をしていた飛鳥井雅昭と知り合い、長年渡ってともに仕事をするようになる[5][1]

1984年6月1日に飛鳥井などの4人の仲間とともにビデオフィルムから独立し、ムービーテレビジョンを設立[8]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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