諸井 恒平(もろい つねへい、1862年6月23日(文久2年5月26日) - 1941年(昭和16年)2月14日)は、武蔵国児玉郡本庄宿(現在の埼玉県本庄市)出身の実業家。多くの事業を進め、セメント製造事業の開拓を手掛けたことから「セメント王」とも呼ばれた。諱を直道、号を素泉と称した。正六位勲六等。 近代諸井家は3家あり、北諸井、南諸井、東諸井と呼ばれた(なお、西諸井は存在しない)。 本屋諸井とも呼ばれ、明治20年代に当主の諸井巴
本庄時代における諸井家
北諸井家は照若町に名園「五州園」を開いた人物で、1892年(明治25年)に逝去している。息子の諸井孝次郎
南諸井家
別名を郵便諸井。東諸井家の祖先は、戦国時代に上州邑楽村藤川一本木の旧家から分家した諸井藍物
である。家系図を見ると、7代目の諸井仙右衛門の妻加代は、大里郡血洗島の渋沢宗助の娘である。また、10代目の諸井泉衛は南諸井家の当主である五左衛門興久の兄で、東諸井家の養子となり、1883年(明治16年)に逝去している。なお、その妻の佐久は加代の姪である。すなわち、後に大事業家となる子爵渋沢栄一の祖父の娘であった。後に11代目当主となる諸井恒平は、東諸井家10代目当主である諸井泉衛と佐久との間に次男として生まれた。事業家としての才覚は若い頃からあり、1878年(明治11年)にわずか16歳で本庄生糸改所頭取に推されている。続いて1886年(明治19年)には児玉郡外二郡蚕糸組合の副頭取に就任し、同年には24歳で本庄郵便局長になった。
しかし、恒平の才能が世に出るきっかけとなったのは、1887年(明治20年)に日本煉瓦製造株式会社に勤務した時からであった。この会社は深谷町にあった。そして、彼を推薦したのは、他ならぬ親類であり先輩でもあった渋沢栄一(青淵)その人である。恒平は支配人から取締役を経て、1907年(明治40年)には専務取締役にまで昇進した。その間、1899年(明治32年)に日本工業協会理事を務め、1906年(明治39年)には東京毛織株式会社専務取締役に就任する。さらに、1910年(明治43年)に秩父鉄道株式会社取締役となった。この他にも大正、昭和を通して次々と要職に就く。
最後に恒平の名を不動にしたのは、秩父鉄道の役員となった明治末年に武甲山の石灰岩に注目し、セメント製造事業の開拓を手掛けたことである。セメントの需要拡大を見込み、1923年(大正12年)に秩父セメント会社を設立、1925年(大正14年)には秩父鉄道株式会社の社長に就任する。1937年(昭和12年)には取締役会長となった。
こうして一大事業を完成させた恒平は、1941年(昭和16年)2月13日、東京・本郷の自宅で永眠する。79歳であった。墓所は埼玉県の安養院である。 恒平を世に出した東諸井家は、その他にも多くの逸材を育て、日本の近代化に深く貢献してきた一族である。恒平の長男である諸井貫一は経済団体連合会・経済同友会の創始者となった。また、泉衛の末子で恒平の弟に当たる諸井六郎(従三位勲二等)は、中国、ヨーロッパ諸国、中・南米に赴任した外交官であり、条約改正に尽力した人物である。他の弟達(時三郎や四郎)も日本の近代化に貢献している。一方、三男である諸井三郎とその次男諸井誠は、作曲家・音楽評論家として多大な業績を挙げている。 諸井興久 大友幸助
東諸井家の人々
系図
諸井逸郎 大友恒夫
諸井泉衛 三保
諸井恒平 諸井貫一 諸井三佐保
佐久 諸井桃二 諸井恒一
諸井時三郎
(春畦) 諸井三郎 諸井虔 諸井勝之助
諸井誠
くら
(諸井華畦)