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出典検索?: "風刺"
風刺(ふうし、仏: satire, 英: satire)とは、社会や人物の欠点や罪悪を遠回しに批判すること[1]。諷刺[2]とも表記する。 風刺とは、何らかの実在の対象(たとえば具体的な人物、組織、国家など)の欠点や愚かしさを暴きだす表現手法である。文章、絵画、劇、映像 等で使われる。 現実を攻撃対象としているということは、風刺は憤り(怒り)に発する(根本動機になっている)ということであり、その点で、冷静な皮肉、モラリスト風の描写、(パロディーなどの)戯作文学などとは一線を画している(つまり、異なっている)[3]。[注 1][注 2][注 3][注 4] だが、憤り(怒り)の直接的な表現である 《呪い》や《悪口》や《抗議》などは風刺とは言えない[3]。風刺であるためには、批判対象に対して距離をとり、自分の憤りを抑制して表現する必要がある[3]。この独特な態度(つまり、怒りが表現を行う根本動機となっているが、その怒りを抑制しつつ表現する、という態度)こそが風刺の本質である[3]。そしてその表現方法は、対象の誇張的変形を伴い、機知を示すことが多い[3]。 西欧の文学における風刺は、紀元前5世紀より、基本的に戯曲と詩の形式による社会論評の形式として受け入れられた。古代ギリシアの劇作家アリストパネス(紀元前446年頃 - 紀元前385年頃)は、もっとも知られた風刺作家の一人である。 しばしば「風刺詩の始祖」とされるのは紀元前2世紀の古代ローマの詩人ガイウス・ルキリウスである[3]。
概説
歴史
[いつ?]@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}ケルト人の社会においては、吟遊詩人の風刺は(呪いと同様に)物理的な効果をもたらし得る、と考えられていた[要出典]。
中世初期には、風刺作品の例は僅かにしか見られない。12世紀における中世中期の到来と近世口語文学の誕生により、風刺文学は復権を成し遂げた。しかしながら、この時代の風刺作品では公の人物に対する直接の風刺は稀であり、風刺は専ら寓話的な用法に用いられていた。文学作品の登場人物は時おり風刺の題材として取り上げられたが、実在の人物や制度が取り上げられることは滅多に無かった。
風刺によるこれより直接的な社会論評は16世紀に再び始まり、フランソワ・ラブレーの作品のような茶番劇(ファース)がより真剣な問題に取り組み、結果として王権の怒りを買うこととなった。しかし、最も偉大な風刺作家達は、合理主義を掲げた17世紀および18世紀の思想運動である啓蒙時代と共に現れた。この時、団体や個人に対する狡猾にして辛辣な風刺化は、民衆の武器となった。ガリヴァー旅行記でイギリス社会を痛烈に批判したジョナサン・スウィフトなどが代表例である。
19世紀の小説家マーク・トゥエインは、風刺新聞から長編小説に及ぶ様々な形式の風刺作品を発表した、最も有名なアメリカの風刺作家である。また同じ19世紀、ロシアにおいてはイヴァン・クルィロフの『寓話』が当時のロシア貴族社会を痛烈に風刺した。
20世紀において、風刺はオルダス・ハクスリーやジョージ・オーウェルなどの作家により、ヨーロッパを席捲する社会変動の危険性に対する、真剣かつ恐るべき論評に用いられた。よりユーモラスな風刺は、ピーター・クック(コメディアン)(英語版) 、アラン・ベネット、ジョナサン・ミラー(英語版)、デヴィッド・フロスト、エレノア・ブロン(英語版)、ダドリー・ムーアといった有名人らや、テレビ番組『That Was The Week That Was』によってリードされた風刺ブームにより、1960年代初めのイギリスで復興期を迎えた。今日でも風刺は社会的な論評と表現の形式として人気を保ち続けているが、風刺は常にユーモラスな物でなければならないという認識が広まりつつある(必ずしも風刺はユーモラスな物とは限らない)。 いくつかの風刺作品での誇張表現は、大勢の人々に信じ込まれてしまう程に巧妙である。これらの作品における風刺の性質は、公には理解されないのかもしれない。その結果として、風刺作品の作家や制作者が激しい非難に晒された実例も存在する。2001年にイギリスのテレビ放送局チャンネル4は、児童性的虐待と小児性愛問題に翻弄される現代ジャーナリズムを揶揄し風刺する意図の、パロディ時事問題シリーズ『Brass Eye
ポップ・カルチャーおよび公共メディアにおける風刺
時おり、政治的あるいは社会的な指摘に用いられる事により、風刺は社会に変化をもたらしえる。例を挙げれば、漫画『ドゥーンズベリー』が、州内でマイノリティに身分証の所持を義務付ける人種差別法を施行していたフロリダ州を風刺したすぐ後に撤廃され、改正法がドゥーンズベリー法という愛称で呼ばれるに至った。
2000年のカナダ国政選挙戦においては、カナダ同盟(旧改革党)による、十分な量の請願書がある場合には住民投票を義務付けるというシステムの提案が、「この1時間は22分(This Hour Has 22 Minutes)」という番組内で諷刺されたことで不評を買い、やがて撤回されてしまった。