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中国語
繁体字 諡號/謚號
簡体字 ?号

発音記号
標準中国語
漢語?音shi hao

日本語
漢字 諡号
ひらがな しごう
朝鮮語
ハングル??
漢字諡號

発音記号
RR式siho

ベトナム語
クオック・グーth?y hi?u
チュノム諡號
満洲語
満洲文字.mw-parser-output .font-mong{font-family:"Menk Hawang Tig","Menk Qagan Tig","Menk Garqag Tig","Menk Har_a Tig","Menk Scnin Tig","Oyun Gurban Ulus Tig","Oyun Qagan Tig","Oyun Garqag Tig","Oyun Har_a Tig","Oyun Scnin Tig","Oyun Agula Tig","Mongolian Baiti","Noto Sans Mongolian","Mongolian Universal White","Mongol Usug","Mongolian White","MongolianScript","Code2000","Menksoft Qagan"}.mw-parser-output .font-mong-mnc,.mw-parser-output .font-mong:lang(mnc-Mong),.mw-parser-output .font-mong:lang(dta-Mong),.mw-parser-output .font-mong:lang(sjo-Mong){font-family:"Abkai Xanyan","Abkai Xanyan LA","Abkai Xanyan VT","Abkai Xanyan XX","Abkai Xanyan SC","Abkai Buleku","Daicing White","Mongolian Baiti","Noto Sans Mongolian","Mongolian Universal White"} ?????? ????
ローマ字amcame gebu

諡(おくりな、(し)、あるいは諡号(しごう、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:諡號)は、漢字文化圏において、主に帝王相国などの貴人の死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名のことである。「諡」の訓読み「おくりな」は「贈り名」を意味する。
概要

広義には国家が与える公の諡と個人が付ける私諡があるが、単に「諡」といったときには公の諡を指す。

諡号を奉る行為は、王権継承と即位を正統化するという意味がある。

中国朝及びの初期では先王等に十干を付した特異な諡号を奉っていた[注釈 1]が、一般的な立諡制度の起源は中国の代中期(紀元前9世紀頃)といわれ、天子のみならず、諸侯大夫・高官・名儒等に贈られ、時代が下って高僧も対象となった。

初期の諡号には褒貶の義はなかったようであるが、次第に生前の行跡に照らして追号されるようになった。中国の戦国時代に成立した『逸周書』の一篇「諡法解」は諡法について定めた最初の記述であり、長く諡号選定の準拠とされた。

立諡制度は、死後に子や臣下によってあげつらわれることにあたり不敬であるという理由で、始皇帝によって一時廃止されながらも、前漢以降中国の歴代王朝に踏襲され、日本には遅くとも大宝3年(703年)以前に、律令政治の成立と前後して輸入された。

なお、厳密には「諡」といえば、諡された字のみを指す。例えば、「順平侯」というのは「諡号」であり、「諡」という場合は「順平」を指す。諡には本来、良し悪しのランク付けはなかったが、後世になって

美諡

中諡

悪諡

の種別が作られた。ただし、南宋の学者鄭樵が著書通志で批判した通り、後世の中国人は諡について誤った認識を抱いており、帝王の名を諡と勘違いしたり、美諡「桓」を誤って悪諡としてしまったりしていたという。[1]

日本仏教徒戒名受戒し仏弟子となり、世俗生活の俗名を離脱するためにつけるものであり、本来は生前に付け、時に追善のため臨終ないし死後につけたものであるが、「臨終ないし死後」に贈られることが一般化した結果、実質的な「忌み名」として用いられている。「忌み名」も私諡の一種であり、そこから諡一般のことを(いみな)と言う場合もあるが、諱とは本来は個人の通称である(あざな)に対する本名を意味し、本人に対する敬意として口に出すことを憚る名、のことで、本義は諡とは異なる。
中国の諡号
帝王の諡
歴史

始皇帝は「臣が君主の死後君主の業績を評価すべきではない。始皇帝、二世皇帝、三世皇帝……万世皇帝と自動的に決めるようにせよ」という意志を持ち、短時期ながら諡法を廃止した。しかし、前漢の皇帝たちはこれを復活させ、さらに2通りの帝王諡号を制定した。高皇帝文皇帝武皇帝明皇帝元皇帝などの帝号と、太祖高祖太宗世宗宣宗などの廟号である。以前は帝号をもって帝王の尊称としたが、以後は多く廟号を用いるようになった。唐以降も帝号もなくなったわけではなく、唐の初期には先例が踏襲されていた。例えば、唐の太宗は死後、高宗によって「文皇帝」を諡された。しかし高宗は後に父帝の諡号を「文武聖皇帝」と改め、古代からの制度を破壊した。後に太宗は玄宗によって「文武大聖皇帝」、さらに「文武大聖大広孝皇帝」と諡号が改められるなど、唐の歴代皇帝の諡号は長くなっていった。の時代には北宋の真宗の「応符稽古神功譲徳文明武定章聖元孝皇帝」のようにさらに長くなる傾向があり、呼びにくいので唐以降の皇帝は通常諡号で呼ばれなくなっている(少ないが「元孝皇帝」という具合に末尾の名称を使う場合もある)。この影響から高麗李氏朝鮮ベトナムの歴代王朝などでも王号・帝号が長くなり、廟号で呼ぶようになっている。なお、王朝以降は一世一元の制が導入されたため、日本などでは明・やベトナムの阮朝の皇帝は諡号でも廟号でもなく、その治世の元号+帝を使用することが多い。
原則

帝王の諡字選定の原則も、臣下のそれと同様であった。武帝文帝など美諡は繰り返し贈られた。東洋史学者の平勢隆郎は諡字選定に春秋学では特に重要な三つの美諡「文・武・成(もしくは宣・襄)」の法則があり、この三つの諡(及び、その諡の同義のもの)は繰り返しつけられていることを指摘している。[2]王朝の創始者が文もしくは武となり、成もしくは宣、あるいは襄は正統的な後継者となる。例をあげると、

戦国秦では、恵文王→悼武王→昭襄王

戦国趙では、武霊王→恵文王→孝成王

武は「桓武」というように同義の桓でもよいと平勢は論じている。ただ、南宋の頃になると経書や春秋学の知識が失われ、桓を悪諡だと誤解している人々が多かった。[3]

良い実績のある皇帝のほかに、夭逝した皇帝には、それを悼む沖帝殤帝など平諡が贈られた。悪諡を贈られた著名な例が隋の煬帝であるが、実際には少ない。悪諡は第一印象が悪いので、悪諡を使うことを避ける傾向もあり、代わりに強いポジティブな感情の意味を含まない美謚、あるいは平謚を使って業績が悪い皇帝を評価する[4]。したがって、ある美諡と平謚も実際に皇帝を婉曲に批判している意味を持つ。例えば、無能で政務を執り行うことが出来なかった皇帝に対して恵帝の美謚もしくは懐帝愍帝の平諡が贈られた[5]。また王朝最後の「末代皇帝」に対して恭順の意を込めて恭帝の美諡が贈られた。

二文字の諡号の場合には、美諡と悪諡(または平諡)の並び称は許可されている(武霊王ほか)。前漢、後漢の2代目以後の皇帝は一貫して「孝○皇帝」の諡が贈られたが、この「孝」は実際の意味がないので、一般的には省略される(前漢第7代の孝武皇帝→武帝、ほか)。

君主には必ずしも諡号があるとは限らない。後継者の都合によって「暴君」もしくは不適格とされた君主は死後、諸侯王ないし諸侯扱い、さらには庶民に降格されたり(例:高貴郷公南朝斉東昏侯海陵王→廃帝海陵庶人、ほか)、在位そのものが否定される場合(前漢の少帝弘、唐の殤帝重茂、明の建文帝ほか)があった。

帝王の諡号は次期帝王と礼部の官僚によって共に選定された。言いかえれば、当代の皇帝は自分の諡を知ることは不可能である。もちろん皇帝自らが諡号と廟号を決めることも許されない。曹叡は悪諡を避けるため生前に自ら明帝の諡号と烈祖の廟号を定めていたのが唯一の例であり、当たり前のように、大きな批判を浴びている。一方、日本では遺詔によって追号を決めた天皇が多く存在する(後述)。
廟号について詳細は「廟号」を参照

一族の祖、王朝の初代や再興を遂げた皇帝には「某祖」、その他の皇帝たちで特に称揚される者には「某宗」の廟号が奉られた。例えば、前漢の高帝劉邦は初代皇帝なので廟号を「太祖」(太祖高皇帝の略で、『史記』以来「高祖」と一般に呼ばれる)、漢の再興を果たした後漢光武帝は廟号を「世祖」とされ、それ以外の漢代の皇帝には「某宗」という廟号を贈られた者がいた。の初代ヌルハチは「太祖高皇帝」、初めて中原を支配した第3代順治帝は「世祖章皇帝」、その子で賢君の誉れ高かった康熙帝は「聖祖仁皇帝」とされ、一代三祖となっている。北魏ではさらに一代五祖となっている。ちなみに、日本でも「皇祖皇宗」という表現が用いられる(教育勅語玉音放送など)。廃帝や末帝には廟号が贈られなかった。廟号を得ることは、太廟(皇室の祭祀所)に位牌が祀られることを意味する。一つの王朝が滅亡すればその王統の祭祀をする者もいなくなるのであり、廟号自体に意味がなくなってしまうゆえである。

上述の通り、以降は、諡号の形骸化のため廟号は諡号に代わって君主の生前の業績を評価する。


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